トラウマ
小学六年生の夏
道徳の授業
忘れられないあのワンシーン。
授業の内容までははっきりと覚えてないが
この授業は22歳になった今でもトラウマとして
心に残り続け、自分の人格形成に影響を与えていると思う。
先生が私たち生徒に「このときのA君の気持ちを答えてみましょう」
と問いかけた。
ひとりふたりさんにんよにん。
挙手によって発言権を手にしたクラスメイトが次々に発表していく。そんな中「きっと、こういう意見は出てくるだろうから違う角度から考えてみよう」というのがいつもの自分だった。
そして、心臓をバクバクさせながら
「もう他に意見はないですか?」
という先生からの問いを待つ。
いつもは自分の意見は言わずに心にそーっと溜めてそれでおしまい。発表しない理由は単純で自分の意見をうまく伝えられる自信がないからだ。
ただ、この日は違った。
そう、勇気を振って意見を伝えようと思った日だった。
手を挙げ、優等生たちと同様に発言権を手に入れた。
ビクビクしながらギイイという古い学校特有の椅子の音とともに立ち上がった。
隣の席の子に聞こえそうな勢いで心臓が鼓動するのがわかる。
クラス全員の冷たい視線を感じながら覚悟を決め、少し感情的になっている自分を客観的に見つつ、意見を声に出し先生に伝えた。
無事に話終わり少しの安堵を感じたと同時に、クラスに沈黙の時間が流れた。
聞こえてくるのは隣のクラスの先生の声だけだった。
夏の涼しい風でさえもこの時ばかりは空気を読んだ。
そして、先生から出た言葉が
「ん?えっと、つまり言いたいことは◯◯ってことかな?」だった。
「先生、違います!!それはさっきあの子が言ってたことであって、自分が伝えたいことはそうではありません!」
心の中で答えた。
次に教室に響き渡ったのは
「あ、はい、、そうです。」
と答えた自分の声だった。
嘘をついた。
これ以上話したら、自分のせいで授業が止まる。
頑張って自分の考えを言葉にしたつもりだったが
全く伝わらなかった。もううまく話せる自信などない。
まだ、世間のことを何も知らず幸せに生きていたはずだった小学六年生の時からネガティブ思考は頭の中に染み込んでいたようだった。生まれもった気質かもしれない。側から見たらなんでもないことも、あの当時の自分にとっては人格を変えてしまうかもしれないぐらい大きなできごとだったのだ。
この事件から、自分の考えは相手に伝わらないということを
痛く実感し、そして今も根強く自分の中に住み着いている。
それ以降、誰かと話していても基本的に否定しないし自分の意見も求められない限りは発さない。「そっか」の乱用振りもいいところだ。
「意見を述べない」ということを22年続ている自分とって人との関わり方が大体同じで楽である。
話は聞く専門、好き嫌いなく誰とでも話す、知らないうちに面倒なことに巻き込まれ板挟みにされて被害を被る。害を受けることも多いが、ありがたいことに、自分が直接的に人と衝突することは滅多にない。
これが自分である。
そう認められていたら、心はもっと休まっているはずである。
日々のあんなことやこんなことを、言葉にして誰かに伝えたい。聞いてもらいた。これがわがままかどうかさえも自分で判断がつかなくなっている。
少し話が逸れた気がする。
あの道徳の授業をキッカケに感情を誰かに安易に伝えていい人間ではないということや、心で感じたことを言葉に変換するのが下手であると言うことに気がついた。
ならいっそ黙って相手に同意してればいい。
言葉にしたところで、伝わらない。
それが自分だと気づいたのだ。
悲しいなあ。
だから今ここで克服できるようそっと練習している。
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