太平記 現代語訳 32-8 神南の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「将軍様は、天皇を守護しつつ、近江国の四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)に滞在中。義詮(よしあきら)殿は、中国地方から進軍してくる敵を食い止めるために、播磨の鵤(いかるが)庄(兵庫県・揖保郡・太子町)に、駐留しておられる」との情報を聞いて、土岐(とき)、佐々木、仁木義長(にっきよしなが)が、3,000余騎を率いて、四十九院に馳せ参じてきた。さらに、四国地方と中国地方の武士ら2万余騎が、鵤へ馳せ集まってきた。

関東地方に駐留している畠山国清(はたけやまくにきよ)からも、「関東8か国の勢力を率いて、今日、明日にでも、応援の為に上洛いたします!」とのメッセージを携えた急使が、何度も送られてくる。

このような情勢なので、尊氏・義詮父子サイドの勢は、天に飛翔して雲を起こす龍のごとし、山に寄りかかって風を生じさせる虎のごとし、である。

四十九院と鵤庄との間に使者を走らせて、合戦の日を定めた後に、2月4日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、3万余騎を率いて坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着。足利義詮も同日早朝、7,000余騎を率いて、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の西、神南(こうない:大阪府・高槻市:注1)の北方の峯に陣を取った。

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(訳者注1)現在では、[高槻市 神内]の地名になっている。
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足利直冬(あしかがただふゆ)陣営側は当初、「大津(おおつ:滋賀県・大津市)、松本(まつもと:大津市)付近にまで兵を進めて、尊氏軍を迎撃しよう」との作戦をかためていた。しかし、「延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と園城寺(おんじょうじ:大津市)の衆徒は皆、尊氏に気脈を通じている」との情報をキャッチし、「このまま京都に留まって、東西からの敵襲を受け止めよう」と、作戦を変更(注2)、京都全体に防衛陣を敷いた。

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(訳者注2)大津まで兵を進めた後に、延暦寺、園城寺、坂本の尊氏軍によって三方向から一斉攻撃を仕掛けられたならば、直冬側は極めて不利になる。
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第1陣は、足利直冬を大将とし、斯波高経(しばたかつね)、その子・斯波氏頼(うじより)、桃井直常(もものいなおつね)、土岐(とき)、原(はら)、蜂屋(はちや)、赤松氏範(あかまつうじのり)らが率いる総勢6,000余騎によって構成。東寺(とうじ:南区)を最後の防衛拠点とし、七条(しちじょう)から南、九条(くじょう)まで、家々、小路に充満。

第2陣は、山名時氏(やまなときうじ)とその子・山名師義(もろよし)を大将とし、伊田(いだ)、波多野(はたの)、石原(いしはら)、足立(あだち)、河村(かわむら)、久世(くぜ)、土屋(つちや)、福依(ふくより)、野田(のだ)、首藤(すどう)、澤(さわ)、浅沼(あさぬま)、大庭(おおにわ)、福間(ふくま)、宇多河(うだがわ)、海老名和泉守(えびないずみのかみ)、吉岡安芸守(よしおかあきのかみ)、小幡出羽守(おばたでわのかみ)、楯又太郎(たてのまたたろう)、加地三郎(かぢさぶろう)、後藤壱岐四郎(ごとういきのしろう)、倭久修理亮(わくしゅりのすけ)、長門山城守(ながとやましろのかみ)、土師右京亮(とじうきょうのすけ)、毛利因幡守(もうりいなばのかみ)、佐治但馬守(さじたじまのすけ)、塩見源太郎(しおみげんたろう)以下、総勢5,000余騎。陣の前面には深田をあて、左方は河を境に、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不明)一帯に分散して陣を取る。

淀川(よどがわ)南岸には、四条隆俊(しじょうたかとし)、法性寺康長(ほうしょうじやすなが)を大将として、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔頼房(いしとうよりふさ)、原、蜂屋、赤松氏範(注3)、和田(わだ)、楠(くすのき)、真木(まき)、佐和(さわ)、秋山(あきやま)、酒邊(さかへ)、宇野(うの)、崎山(さきやま)、佐美(さみ)、陶器(すえ)、岩郡(いわくり)、河野邊(かわのへ)、福塚(ふくづか)、橋本(はしもと)ら、吉野朝(よしのちょう)勢力3,000余騎が、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)の下に陣を取る。

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(訳者注3)原、蜂屋、赤松氏範(原文では「赤松弾正少弼」)が第1陣のメンバーリストと重複している。太平記作者のミス、あるいは写本の段階のミスであろう。
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第2陣中の山名師義の軍は当初、「敵の来るのを待ち受けてじっと待機、仕掛けてきたら迎撃しよう」との作戦であった。しかし、「神南の北方山中に陣取っている足利義詮の手持ち兵力は、それほど多くはないぞ」と見透かした結果、作戦を急遽(きゅうきょ)変更、八幡に陣取る吉野朝軍と一つに合した後、まずは神内宿(注4)へと進軍。楯の板を締め、馬の腹帯を固めて、二の尾根から攻め上がって行った。

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(訳者注4)注1に記したように、[神南]と[神内]は、同じ場所である。
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これに対して、足利義詮側は、3箇所に分散して陣を取っていた。

西の尾根先をかためているのは、赤松則祐(あかまつそくゆう)、赤松師範(もろのり)、赤松直頼(なおより)、赤松範実(のりざね)、赤松朝範(とものり)、そして、佐々木道誉(ささきどうよ)の家臣からなる黄旗一揆(きはたいいっき)武士団、総勢2,000余騎である。

南の尾根先を守っているのは、細川頼之(ほそかわよりゆき)、細川繁氏(しげうじ)が率いる四国地方、中国地方の勢力2,000余騎である。

そして、北方の峯には、大将・義詮の本陣。佐々木道誉、赤松則祐(注3)以下の老武者、引付頭人(ひきつけとうにん)、評定衆(ひょうじょうしゅう)、奉行人(ぶぎょうにん)ら、総勢3,000余騎、油幕(ゆばく:注4)の中に敷き皮を並べ、鎧の袖を連ねて並び居る。

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(訳者注3)西の尾根先の布陣と、だぶってしまっている。

(訳者注4)雨露を防ぐために油を引いた天幕。
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険しい山中に陣を置いている時には、えてして、はるか遠方の事はよく見えるのであるが、自らの足もと、すなわち山麓の情勢は把握しにくいものである。

「さてさて、山名軍はまっ先に、いったいどこの陣へ、攻めかかってくるのであろうか」と、義詮軍側は全員、じっと目をこらして遠くを眺めていた。

突然、思いもかけない西の尾根先から、トキの声がドッと一斉に上がった。山名師義を先頭に、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力2,000余騎が、イッキにそこまで懸け上がってきたのである。

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