太平記 現代語訳 9-8 近江・番場において、六波羅庁メンバー、自害
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「六波羅庁(ろくはらちょう)両長官、京都での合戦に敗北し、関東方面へ逃走中!」との情報が、あっという間に近江(おうみ:滋賀県)全域に伝播し、そこかしこで様々な集団がうごめきだした。
安宅(あたか)、篠原(しのはら)、日夏(ひなつ)、老曽(おいそ)、愛知川(えちがわ)、小野(おの)、四十九院(しじゅうくいん)、摺針(すりはち)、番馬(ばんば)、醒井(さめがい)、柏原(かしわばら)他、伊吹(いぶき)山麓から鈴鹿(すずか)川一帯に巣食う山賊、強盗、無頼漢たち2~3,000人が、たった一夜の間に、集合。
彼らは、遁世(とんせい)の体で伊吹山麓に世を忍んで暮らしていた後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第5親王を、自分たちの大将にまつりあげ、錦の御旗をかざし、東山道(とうさんどう)一の難所である番場宿(滋賀県・米原市)東方の小山の上に陣取った。
彼らは、細い街道を挟む崖の上の両側に待機し、六波羅庁メンバー一行の来るのを、虎視眈々(こしたんたん)と待ち構えた。
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夜明けと同時に、北条仲時(ほうじょうなかとき)ら六波羅庁メンバーらは、篠原宿を出発し、光厳天皇(こうごんてんのう)を守りながら、街道に沿って北東方向へ歩を進めた。
道は徐々に、深い山の中に入っていく。
京都を出た時は総勢2,000余騎はいたというのに、道中で逃亡者が続出したのであろう、六波羅庁メンバー一行の人数は今や、わずか700騎にも満たない状態に、なってしまっている。
北条仲時はここで、軍の体勢を、集中から分散へと切り替えた。後方から軍勢が迫ってきた場合に備え、佐々木時信(ささきときのぶ)とその軍を最後尾に配置し、糟谷宗秋(かすやむねあき)に、「我々の行く先を塞(ふさ)いでる賊がいたら、そいつらを打ち散らして道を開け」と命令し、先遣隊(せんけんたい)として進ませた。糟谷部隊から少し離れて本隊が進み、そのまた後方を佐々木軍が進み、というような体勢にしたのである。
番場峠を越える地点で、糟谷部隊は、例の無頼者集団に遭遇した。彼らは数千の軍勢をもって街道を間に挟み、盾を一面に並べ、鏃(やじり)を揃えて待ち構えている。
遥か彼方前方に彼らを見た、糟谷宗秋は、
糟谷宗秋 ありゃぁきっと、近江や近隣諸国の悪党めらが、落人(おちうど)の鎧兜(よろいかぶと)を剥いでやろうってんで、ウヨウヨと集まってきやがったんだぜ。
糟谷宗秋 なぁに、どうってこたぁ無(ね)ぇさ、ちょっとテキビシク攻撃してやりゃぁいいんだよ、あいつらイッパツでビビっちまわぁな。命捨ててまで、おれたちに立ち向かってくるなんてこたぁ、ねぇだろうよ。よぉし、イッキにかけ蹴らしてしまおうじゃねぇの、みんなぁ、おれに続けぇ!
宗秋は36騎を率い、馬の首を並べて突撃した。野伏集団の第1陣500余人はおそれをなして、はるかかたの峯の上へ逃げ登り、第2陣に合流してしまった。
糟谷宗秋 よぉし、これでやつらはシマツできたぜ。もう誰も、手だしして来るヤツぁいねえだろうよ。
しかし、朝霧が晴れゆくと共に、悪夢のような光景が宗秋の眼に入ってきた。
まさにこれから越え行こうとしている山道に沿って、遥か彼方まで、野伏の集団が充満している。峰の嵐にはためく錦の旗一流れの下、5~6,000人ほどの敵が要害に陣を取り、六波羅庁メンバー一行を待ち構えているではないか。
野伏集団・第2陣の大軍を見て、呆然と立ち尽くす宗秋・・・。
糟谷宗秋 (内心)あそこを騎馬で突破するのは、ムリだろう。こっちはもう、人も馬も疲れきっちゃってるんだよなぁ・・・しかも、敵側は、険阻この上なしのポジションに位地してやがる。
糟谷宗秋 (内心)接近して矢戦で戦うってのも、不可能だ、矢はもう全部射つくしちゃってるからな。だいいち、あんな膨大な人数相手に、いったいどうやって戦えってんだ?
糟谷宗秋 (内心)だめだわ、こりゃ・・・。オレたちだけじゃ、到底ムリだ。
山麓のとある辻堂の側で、宗秋たちは馬から降りて、後続の本隊が到着するのを待つ事にした。
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前方で戦闘あり、との報告を聞き、北条仲時は馬の足を速めて、宗秋たちが待機している所に駆けつけてきた。
北条仲時 おい、どうだ、どんなカンジだ、こっちは?
糟谷宗秋 はぁ・・・。
北条仲時 ・・・。
糟谷宗秋 まったくねぇ・・・「武士たるもの、死すべき所で死なずんば、後に恥辱を見る結果となるであろう」たぁ、よくぞ言ったもんですわぁ。
北条仲時 ・・・。
糟谷宗秋 おれたちゃ、京都で潔く討死にしときゃぁよかったもんを、たった一日の命を惜しんだばっかしに、はるばるここまで逃げてきちゃって・・・あげくの果てに、こんな所で、つまんねぇヤロウドモの手にかかって、屍(しかばね)を道端の露にさらすことになっちまうとはなぁ・・・あーあ、まったくもう、クヤシイ事じゃぁねぇですかい!
北条仲時 ・・・。
糟谷宗秋 ほら、あそこ見てくださいよ、(野伏集団たちを指差す)あそこ。甘いモノに群がる蟻みてぇに、ビッシリいやがる。
北条仲時 ウーン・・・。
糟谷宗秋 あそこにいやがる連中らだけで、もう敵はおしまいってんならね、おれたちみんなで命棄ててかかって、ヤツラをムリヤリ打ち払ってでも、あの谷を通っていけるかもしれませんよ。けどねぇ・・・。
糟谷宗秋 問題はその先ですよ。
糟谷宗秋 まずは、土岐(とき)一族。彼らは、謀反のショッパナから、その張本人ですからね(注1)。待ってましたぁとばかりに、おれたちが美濃国(みのこく:岐阜県南部)にさしかかった時に、当然、道を塞いでくるでしょうね。
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(訳者注1)土岐一族の動向については、1-7および1-8を参照。
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糟谷宗秋 さらにその先には、吉良(きら)一族(注2)。何度も軍勢招集かけてるのに、ウンともスンとも言ってきやがらねぇ。うわさによれば、遠江国(とおとおみこく:静岡県西部)内に城郭を構えてるらしい。やつらもきっと、コトを構えてきやがるでしょうねぇ。
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(訳者注2)足利氏に属する武士の集団。愛知県・西尾市の吉良を根拠としていた。
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糟谷宗秋 そういう連中らまで相手にして、闘うってぇことになるとねぇ・・・たとえこっちに一万の兵力があったとしてもですよ、とてもかなやしません。まして、今やおれたちは落人の身ですよ・・・人馬ともに疲れ果て、矢の一本ロクに射る事もできなくなっちゃってる・・・こんなんでこの先いったい、どこまで落ち延びれるもんですかってんだ。
糟谷宗秋 殿、もう先へ進むの、やめましょうよ。後からやって来る佐々木時信をここで待ってですね、あいつの軍勢と合流してから近江へ戻りましょうや。どこか適当な城を見つけて、しばらくそこにたてこもるってセンで、どうですか? そこにじっと身をおいて、関東からの援軍の到着を待ってみては?
北条仲時 うん・・・そうだなぁ・・・その作戦も一応考えてみてもいいとは思うよ・・・。でもなぁ、今となっては佐々木だって、腹の中じゃいったい何考えてんだか、分かったんもんじゃぁないぞ。そんなに頼りにしてもいいものかねぇ?
糟谷宗秋 ・・・。
北条仲時 あぁーっ! もう、進退(しんたい)窮(きわ)まってしまったなぁ!
北条仲時 いやいや、こんな事言っててもハジマラん。とにかく、みんなの意見をまず聞いて、それからだ。
北条仲時 全員、このお堂の中でしばらく休憩。佐々木が来たらソク、作戦会議開始としよう。
糟谷宗秋 はい。
500余騎の武士たちは全員、馬から下り、辻堂の庭に腰を下ろした。
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佐々木時信は、本隊から一里ばかり後方を、300余騎を率いて進んでいた。ところが、いったいいかなる天魔波旬(てんまはじゅん)のしわざであろうか、
人物A えらいこっちゃ! 北条仲時殿の軍がなぁ、番馬峠で野伏どもに包囲されてな、一人残らず討たれてしまいましたでぇ!
佐々木時信 なにぃ! なんやとぉ!
佐々木時信 (内心)・・・うーん・・・もうこないなっては、どうしようもないなぁ。
時信は、意を決して愛知川(えちがわ)のあたりから京都へ引き返し、倒幕軍側に投降してしまった。
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北条仲時 (内心)遅いなぁ、佐々木はぁ! いったいナニしてるんだ?(ジリジリジリジリ・・・)
待てど暮らせど、時信はやって来ない。
北条仲時 (内心)さては、あいつ、裏切って敵側に寝返ってしまったな・・・あぁ・・・(天を仰ぐ)。
北条仲時 (内心)こうなったら、いったいどこへ引き返せっていうんだ? いったいどこへ逃げろっていうんだ?
北条仲時 (内心)もはやこれまで・・・潔く腹を切るしかない・・・よぉし!
覚悟定まった仲時は、サバサバとした表情になっていわく、
北条仲時 みんな! みんなに言いたいことがあるんだ、よく聞いてくれ!
六波羅庁メンバー一同 (かたずをのんで)・・・。
北条仲時 北条家の武運もようやく傾き、その滅亡も遠からずと思いつつも、諸君は武士の名誉を重んじ、日頃の誼(よしみ)を忘れずに、ここまでよく、私についてきてくれた。
北条仲時 その諸君の志に、この仲時、いったいなんといって感謝の言葉を述べたらよいのか・・・。
六波羅庁メンバー一同 (じっとうつむく)・・・。
北条仲時 なんとかして、諸君のそのまごころに報いたいとは思う。でも、わが北条家の武運も既に尽きてしまった・・・何をもってしても、もはや諸君に報いることができなくなってしまった。
北条仲時 残された道はただ一つ、諸君の為に自害して、生前に諸君からいただいた恩に、死後の世界で報いるのみ。この仲時、不肖の身たりとはいえ、北条一族の流れに連なる者、敵方は私の首に、とてつもない巨額の恩賞をかけていることだろう。
北条仲時 さ、早く、この仲時の首を取って、京都にいる足利家の連中らの手に渡したまえ。そしたらきっと、私に味方してここまでついてきた罪も、許してもらえるだろう。
仲時は、鎧を脱いで肌脱ぎとなった。
腹をかき切って、仲時は倒れ伏した。
糟谷宗秋は、鎧の袖にふりかかる涙を抑えて叫ぶ、
糟谷宗秋 殿! 殿ぉ!(涙)
糟谷宗秋 宗秋こそ先に自害して、殿の冥土(めいど)の道案内、おつとめさせていただこうと思ってましたのに! どうして先に行っちゃうんですかぁ、殿、殿ぉ! うううう・・・(涙)。
六波羅庁メンバー一同 ううう・・・(涙)。
糟谷宗秋 よぉーし! 殿の今生(こんじょう)の立派なご最期、この宗秋、たしかに見届けやしたぜぃ! 冥土に行ってしまわれたからって、おれが殿から離れていくと思ったら大間違い! ちょっと待ってて下さいよ、死出(しで)の山の旅のお供、おつとめさせていただきやすからねぇ!(涙)
宗秋は、柄口まで仲時の体に突き立った刀を抜き取り、それを自分の腹に突き立てた。そして、仲時の膝に抱き付き、うつぶせに倒れ伏した。
これを見た一同は、一斉に自害を始めた。
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(訳者注3)これ以下に登場する人々の名前の読みは、訳者が推測して記述したものであるので、もしかしたら間違っているかもしれない。
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佐々木清高(ささききよたか)、その子息・佐々木次郎右衛門(じろうえもん)、佐々木三郎兵衛(さぶろうびょうえ)、佐々木永寿丸(えいじゅまる)、
高橋九郎左衛門(たかはしくろうざえもん)、高橋孫四郎(まごしろう)、高橋又四郎(またしろう)、高橋弥四郎左衛門(やしろうざえもん)、高橋五郎(ごろう)、
隅田源七左衛門尉(すだげんしちざえもんのじょう)、隅田孫五郎(まごごろう)、隅田藤内左衛門尉(とうないざえもんのじょう)、隅田興一(よいち)、隅田四郎(しろう)、隅田五郎(ごろう)、隅田孫八(まごはち)、隅田新左衛門尉(しんざえもんのじょう)、隅田又五郎(またごろう)、隅田藤六(とうろく)、隅田三郎(さぶろう)、
安藤太郎左衛門入道(あんどうたろうざえもんにゅうどう)、安藤孫三郎入道(まごさぶろうにゅうどう)、安藤左衛門太郎(さえもんたろう)、安藤左衛門三郎(さえもんさぶろう)、安藤十郎(じゅうろう)、安藤三郎(さぶろう)、安藤又二郎(またじろう)、安藤新左衛門(しんざえもん)、安藤七郎三郎(しちろうさぶろう)、安藤藤次郎(とうじろう)、
中布利五郎左衛門(なかぶりごろうざえもん)、石見彦三郎(いわみひこさぶろう)、武田下條十郎(たけだげじょうじゅうろう)、関屋八郎(せきやはちろう)、関屋十郎(じゅうろう)、
黒田新左衛門(くろだしんざえもん)、黒田次郎左衛門(くろだじろうざえもん)、竹井太郎(たけいたろう)、竹井掃部左衛門尉(かもんさえもんのじょう)、
寄藤十郎兵衛(よりふじじゅうろうびょうえ)、皆吉左京亮(みなぎりさきょうのすけ)、皆吉勘解由七郎兵衛(かげゆしちろうびょうえ)、小屋木七郎(こやきしちろう)、塩屋右馬允(しおやうまのじょう)、塩屋八郎(はちろう)、
岩切三郎左衛門(いわぎりさぶろうざえもん)、その子息・岩切新左衛門(しんざえもん)、岩切四郎(しろう)、
浦上八郎(うらかみはちろう)、岡田平六兵衛(おかだひょうろくびょうえ)、木工介入道(もくのすけにゅうどう)、その子息・木工介三郎(すけさぶろう)、
吉井彦三郎(よしいひこさぶろう)、吉井四郎(しろう)、壱岐孫四郎(いきまごしろう)、窪二郎(くぼのじろう)、
糟谷弥二郎入道(かすややじろうにゅうどう)、糟谷孫三郎入道(まごさぶろうにゅうどう)、糟谷六郎(ろくろう)、糟谷次郎(じろう)、糟谷伊賀三郎(いがさぶろう)、糟谷彦三郎入道(ひこさぶろうにゅうどう)、糟谷大炊次郎(おおいじろう)、糟谷次郎入道(じろうにゅうどう)、糟谷六郎(ろくろう)、
櫛橋次郎左衛門尉(くしはしじろうざえもんのじょう)、南和五郎(なわごろう)、南和又五郎(またごろう)、
原宗左近将監入道(はらむねさこんしょうげんにゅうどう)、その子息・原宗彦七(ひこしち)、原宗七郎(しちろう)、原宗七郎次郎(しちろうじろう)、原宗平右馬三郎(へいうまさぶろう)、
御器所七郎(ごきそしちろう)、怒借屋彦三郎(ぬかりやひこさぶろう)、西郡十郎(にしこりじゅうろう)、秋月二郎兵衛(あきづきじろうびょうえ)、半田彦三郎(はんだひこさぶろう)、
平塚孫四郎(ひらつかまごしろう)、毎田三郎(まいでんさぶろう)、花房六郎入道(はなぶさろくろうにゅうどう)、宮崎三郎(みやざきさぶろう)、宮崎太郎次郎(たろじろう)、
山本八郎入道(やまもとはちろうにゅうどう)、山本七郎入道(しちろうにゅうどう)、その子息・山本彦三郎(ひこさぶろう)、山本小五郎(こごろう)、その子息・山本彦五郎(ひこごろう)、山本孫四郎(まごしろう)、
足立源五(あだちげんご)、三河孫六(みかわまごろく)、廣田五郎左衛門(ひろたごろうざえもん)、伊佐治部丞(いさじぶのじょう)、伊佐孫八(まごはち)、伊佐三郎(さぶろう)、
息男孫四郎(そくなんまごしろう)、片山十郎入道(かたやまじゅうろうにゅうどう)、木村四郎(きむらしろう)、二階堂伊予入道(にかいどういよにゅうどう)、石井中務丞(いしいなかつかさのじょう)、その子息・石井弥三郎(やさぶろう)、石井四郎(しろう)、
海老名四郎(えびなしろう)、海老名興一(よいち)、弘田八郎(ひろたはちろう)、覚井三郎(さめがいさぶろう)、石川九郎(いしかわくろう)、その子息・石川又二郎(またじろう)、
進藤六郎(しんどうろくろう)、進藤彦四郎(ひこしろう)、備後民部太夫(ぶんごみんぶだゆう)、備後三郎入道(さぶろうにゅうどう)、
加賀彦太郎(かがひこたろう)、加賀弥太郎(やたろう)、三嶋新三郎(みしましんざぶろう)、三嶋新太郎(しんたろう)、武田興三(たけだこうぞう)、満王野藤左衛門(みつわのとうざえもん)、
池守藤内兵衛(いけもりとうないびょうえ)、池守左衛門五郎(さえもんごろう)、池守左衛門七郎(さえもんしちろう)、池守左衛門太郎(さえもんたろう)、池守新左衛門(しんざえもん)、
齊藤宮内丞(さいとうくないのじょう)、その子息・齊藤竹丸(たけまる)、齊藤宮内左衛門(くないざえもん)、その子息・齊藤七郎(しちろう)、齊藤三郎(さぶろう)、
筑前民部太夫(ちくぜんみんぶだゆう)、筑前七郎左衛門(しちろうざえもん)、田村中務入道(たむらなかつかさにゅうどう)、田村彦五郎(ひこごろう)、田村兵衛二郎(ひょうえじろう)、
信濃小外記(しなののしょうげき)、真上彦三郎(まかみひこさぶろう)、その子息・真上三郎(さぶろう)、
陶山次郎(すやまじろう)、陶山小五郎(こごろう)、小見山孫五郎(こみやままごごろう)、小見山五郎(ごろう)、小見山六郎次郎(ろくろうじろう)、
高境孫三郎(たかさかまごさぶろう)、塩谷弥次郎(しおのややじろう)、庄左衛門四郎(しょうのさえもんしろう)、藤田六郎(ふじたろくろう)、藤田七郎(しちろう)、
金子十郎左衛門(かねこじゅうろうざえもん)、真壁三郎(まかべさぶろう)、江馬彦次郎(えまひこじろう)、近部七郎(こんべしちろう)、能登彦二郎(のとひこじろう)、
新野四郎(にいのしろう)、佐海八郎三郎(さみはちろうさぶろう)、藤里八郎(ふじさとはちろう)、愛多義中務丞(あたぎなかつかさのじょう)、その子息・愛多義弥次郎(やじろう)
上記の主要メンバーの他、合計432人、全員一斉に腹を切った。
彼らの身を浸して、血潮は黄河のごとく流れる・・・死骸は庭に充満し、まるで屠場に来たかのようである。あの中国・唐王朝時代「つちのといの年」の反乱軍5000人の一斉の死、あるいは、潼関(どうかん)の戦いにおいて百万の兵が河水に溺れた時といえども、これに比べればまだましであったか、と言いたくなるようなこの惨状、まことに哀れにして目もあてられず、言葉で表現のしようもない。
光厳天皇(こうごんてんのう) あ、あ・・・。
後伏見上皇(ごふしみじょうこう) ・・・。
その場に居合わせる光厳天皇、後伏見上皇両陛下は、目の前に展開されていくこの光景に、もはや、肝も魂もどこかに飛び去ってしまわれ、ただただ呆然(ぼうぜん)、その場に座し続けられるのみである。
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(訳者注4)六波羅庁メンバー一同の最期が実際にこのようなものであったのかどうか、それとも、これもまた太平記作者のフィクションであるのかどうか、訳者には何とも言いようがない。北条仲時らが番場で自刃した事は、史実であるようだ。蓮華寺(れんげじ:滋賀県・米原市)に、彼らの氏名を記した過去帳が存在するようだ。
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