太平記 現代語訳 14-1 足利尊氏と新田義貞の対立
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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北条時行(ほうじょうときゆき)の反乱を鎮圧して、関東の平和を回復することに成功した足利尊氏(あしかがたかうじ)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)からまだ任命されてもいないのに、自分勝手に、「足利征夷大将軍(あしかがせいいたいしょうぐん)」と、自称しはじめた。「関東での反乱軍討伐がうまくいけば、将軍にしてやる」と、天皇からお約束いただいてたのだから、こうなったらもう、何の問題もないだろう、というわけである。
さらに、「関東8か国の統治についても、委任をいただいてるのだから」ということで、今回の箱根と相模川での合戦において功績を立てた者らに、恩賞を与えた。
ところが、そのやり方たるや・・・鎌倉幕府滅亡後、新田一族が朝廷から拝領した領地をことごとく没収して、「所有者無しの土地」とした。その上で、それを、今まで領地を持っていなかった者らに分与したのである。
このような仕打ちに、新田義貞(にったよしさだ)が黙っているはずがない。こっちもお返しだとばかりに、新田一族が管轄権を持っている国々、すなわち、越後(えちご:新潟県)、上野(こうずけ:群馬県)、駿河(するが:静岡県中部)、播磨(はりま:兵庫県西南部)の中の、足利一族が領主権を持っている荘園の権利をすべて、彼らから取り上げ、新田家の家臣らに与えた。
これ以来、新田と足利の間はまことに険悪な状態となり、諸国における両家の確執は止む時がなくなってしまった。
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この両者の対立、その根はまことに深いのである。
去る元弘年間の初めに、鎌倉幕府を滅ぼした時、新田義貞は考えた。
新田義貞 (内心)おれの功績は、誰よりも大きいんだから、関東の武士たちはみんな、おれに靡いてくるだろう。
ところが、当時3歳の足利尊氏の次男・千壽王(せんじゅおう:注1)が、鎌倉の戦が終わった後の6月3日、下野国(しもつけこく:栃木県)から、鎌倉の大蔵谷(おおくらのやつ:神奈川県・鎌倉市)に帰ってきた。この情報をキャッチした関東の武士たちは、したたかな計算を始めた。
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(訳者注1)後に、足利義詮(あしかがよしあきら)と名前が変わる。
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武士A 京都では、足利高氏殿、天皇陛下のおぼえ、めでたいっていうじゃない。
武士B おいらの所にも、そういったような情報、入ってるよ。天皇の勤務評定、足利殿にダントツだってよ。
武士C となるとだなぁ、今から足利殿にコネつけといた方が、これから何かと、有利に・・・。
武士D 足利殿から朝廷に口きいてもらえて、自分の功績、朝廷から認めてもらいやすくなるだろうなぁ。そうなったら、恩賞もガッポリよ。
武士A よぁし、おいらこれから、千壽王殿の所に、ごきげんうかがいに行こうっと!
武士一同 おいらも!
このようにして、関東地方の武士の大半が義貞から離れ、千壽王のもとに、はせ参じていってしまった。
また、次のような事もあった。
鎌倉幕府滅亡後、義貞は、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう:鎌倉市)の若宮の拝殿前で首実験を行った後、神社の池で太刀や長刀を洗い、そのあげく、神殿に押し入って、その中の重宝を検分した。
それらの重宝の中に、錦の袋に入った二引両(ふたつびきりょう:注2)マークの旗があった。
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(訳者注2)円の中に二本の水平線を引いたマーク。
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新田義貞 オッ、これはぁ! この旗は、わが家のご先祖、八幡太郎・義家(はちまんたろう・よしいえ)様が、後三年の役(ごさんねんのえき:注3)の時に、戦勝祈願文をそえて、ここの神社に奉納された旗にちげぇねぇ! こりゃ、もんのすげぇお宝だわぁ・・・だけどなぁ、中黒の旗(注4)じゃぁねぇから、わが新田家の役には立たんわぁ・・・惜しいなぁ、ったくう。
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(訳者注3)奥六郡(おくろくぐん:岩手県北上川流域一帯)を支配していた安倍(あべ)氏に対して、源頼義(みなもとのよりよし)が仕掛けた戦争が、「前九年の役(ぜんきねんのえき)」である。このとき義家は、父・頼義に従ってこの戦争に参加している。
安倍氏敗北の後、奥羽一帯の支配者となったのは、清原(きよはら)氏であった。やがて清原氏内に内紛が起こり、義家は、その一方に与して、内紛に介入していった。これが「後三年の役」である。
(訳者注4)円の中に一本の水平線を引いたもの(新田家の家紋)
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これを聞きつけた足利家の者が、「ならばその旗、足利家に下さい」と申し出たのだが、義貞は旗を渡さなかったので、危うく両家は合戦に及ぼうか、という所まで行った。しかし、こんなことが朝廷に聞こえてはまずい、というので、双方口をつぐんでいたのである。(注5)
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(訳者注5)足利氏の紋所はまさにこの「二つ引き両」であったので、この旗をそのまま使える。新田氏と足利氏は共に、源義家の子孫である。
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このような対立が数多く起こった結果、新田と足利は、同族としてのよしみも忘れ、互いに仇敵のごとくに怨みあうようになり、何とかして相手を亡ぼさんと、牙を研ぎはじめた。
早くも、天下に乱の兆しが見え始めた。実に、嘆かわしいことである。
このような背景があったので、陛下のお側近くにおいても、足利家の事を様々に讒言する者が現れ、事の真相が、陛下にも見えなくなってしまっていた。
そのような時に、またまた、陛下のお耳に、とんでもない話が飛び込んでしまった。
臣下E 足利尊氏、北条討伐軍を率いて関東を平定した後、今度は、朝廷転覆の陰謀を企ててる、との情報が・・・。
後醍醐天皇 ナニィ! 朝廷転覆! ほんまにもぉ、あいつはいったい、なんちゅうやっちゃねん、けしからん! どないに高い功績があったにしても、反逆行為をやっていくなら、そく、逆臣や! すぐに、足利追討の勅命出せぇ!
公卿たちはあわてて会議。その結果を受けて、北畠親房(きたばたけちかふさ)と藤原公明(きんあきら)が、陛下をしきりに諌めた。
北畠親房 足利尊氏が反逆を企てているとの情報が、陛下のお耳に達したとお聞きしておりますが、その情報の真否、はっきりと判明したわけでは、ございませんでしょう?
藤原公明 疑わしいからというだけで、大きな功績のあった者を退けるというのでは、仁なる政治とはいえませんわ。
後醍醐天皇 よぉし、そこまで言うんやったらな、誰か適当なもんを鎌倉へ派遣して、事情をよぉ調べさせい!
ということで、法勝寺(ほっしょうじ:京都市・左京区にあった)の円観(えんかん)が、鎌倉へ派遣されることになった。
勅命に従って、円観が関東へ向けて出発するちょうどその日、細川和氏(ほそかわかずいじ)が、尊氏の使者として京都へやってきた。
和氏は、一通の奏状を朝廷に提出した。その内容は以下のごとし。
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参議従三位(さんぎじゅさんみ)兼武蔵守(むさしのかみ)・源朝臣(みなもとのあそん)・尊氏、ここにつつしんで申し上げます。
新田義貞グループを速やかに誅罰し、天下に泰平をもたらさん事、請いたてまつる:
過去歴代の聖天子の、国家に徳をもたらしたその政治の様相を、謹んで考察いたしまするに、「与えられた賞は、その者の忠節の存在を示し、科せられた罰は、その者が罪を犯したことを表す」という、賞罰に関しての一貫したポリシーがあったと、いえましょう。
そのポリシーから外れてしまったならば、帝王がいったんは統一した天下でさえも、その後継者が文治をもって守っていくことは、不可能なのであります。君子であれば当然重視するこのような事を、凡愚の者はえてして、軽んじがちなものであります。
去る元弘年間の初め、関東の北条氏は、朝廷に対する逆心も露わに、朝廷の御意向をことごとく、ないがしろにしておりました。それが原因となって、災禍や混乱がわき起こり、わが国は危機に瀕しました。
その時、この尊氏は、不肖の身ではありながらも、憂国の同志を糾合してその旗頭となり、打倒・鎌倉幕府に、決起したのでありました。これを契機に、北条氏のために命を捧げようと思っていた人々も、北条家から我々サイドへと傾き、日和見をしていた人々も、正義の側につこうとの誠意を持つようになりました。
そのような情勢の中に、私はついに腕を振るって一戦を致し、あっという間に勝利を得て、朝廷の敵どもを、近畿の外へ追い払うことができました。
ちょうどそのころ、関東においては、新田義貞が、度量の小さい貪りの心ゆえの憤怒に駆られ、幕府から派遣されてきた緊急課税担当の者を、殺戮いたしました。
自らの犯したその罪のあまりの大きさに、逃げ場所を失った義貞は、しょうことなしに、倒幕の兵を起こしたのです。京都において私が見事に賊徒を退けた事を聞き、彼は、いちかばちかの勝負に、うって出たのであります。朝廷の敵を誅するため、との名分を掲げて旗揚げしたかのように言っておりますが、その実は、「窮鼠(きゅうそ)かえって猫を噛む、闘雀(とうじゃく)は人間にでも見さかいなしにとびかかっていく」といった、たぐいのものであります。
関東の地において、義貞は3度戦っても勝利を得ることができず、北条軍に圧倒され、城を守り、城壁を固めようとしていました。
そのような時に、私の長男・足利義詮(よしあきら)は、当時齢(よわい)たった3歳ながらも、下野国(しもつけこく:栃木県)において、打倒・鎌倉幕府のリーダーとして、立ち上がったのです。義詮の勢威は、遠方にいる武士たちにまで及び、こちらが招きもしないのに、続々と、義詮のもとに参集してきました。
義貞は、背水の陣の策にならい、自らの退路を断ち切って戦い、大いに敵を破った、ということになりましょう。たしかに、戦ったのは義貞です。しかしながら、倒幕の功績が義貞にある、などというのは、全くもって皮相な見解でありまして、討幕成功の本質的な功績は、この尊氏にこそ、帰せられるべきなのであります。
しかるに、義貞は、陛下を欺き奉って恩賞を貪り、凡愚な自らの器も忘れて、高い地位を望んだのであります。まさに、義貞こそは、社会に損害をもたらし、国家を虫食む輩であると、いえましょう。
私は今、再び反乱を起こした北条氏残党を鎮圧するために、長く苦しい東征の途上にあります。なのに、心ねじけた臣下が朝廷にのさばり、私への讒言を言い触らして、真実を覆い隠しております。これはひとえに、新田義貞におもねる輩のしわざであります。まさに、あの中国秦(しん)王朝の末期に、趙高(ちょうこう)が君主をたばかった結果、章邯(しょうかん)が敵の楚(そ)に降伏せざるをえなかったのと同様の状態です。
大逆の始りとして、これよりはなはだしいものは無いでしょう。その兆しが現われないうちに乱を収めるが、武将としての完き備え。なにとぞ、一日も早く、勅命を下されて、逆賊・新田グループを誅伐し、日本国中に安静の日々をもたらしくださいますよう、懇願してやみません。
尊氏、おそれつつしみて、申し上げます。
建武2年10月日
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その奏状が未だ内覧(ないらん:注6)にも達していない、よって、誰もこの奏状の存在を知らないはずなのに、義貞は、尊氏からのこの奏状が提出された事を伝え聞き、これに対抗して、同様に奏状を書いて朝廷に送った。その内容は以下の通り:
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(訳者注6)天皇に見せる前に、事前に関白等が奏状に目を通すこと。
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従四位上(じゅうよんいじょう)・左兵衛監(さひょうえのかみ)兼・播磨守(はりまのかみ)・源朝臣義貞(みなもとのあそんよしさだ)、おそれつつしみて申し上げます。
逆臣・足利尊氏ならびに直義らを速やかに誅罰せられ、日本国中に陛下の御威光をゆきわたらせん事、請いたてまつる:
つつしんで、今上天皇陛下(きんじょうてんのうへいか)が、天下を統治しておられることを考えまするに、そのおん徳は、古今の日本の歴史上に輝きわたっておりまして、かの三皇五帝をもしのぐ高さです。陛下の神のごとき武威に、鉾の先は振動し、陛下の聖なる文治のお力によって、広い宇宙も安定しております。
ところがここに、源氏末流の兄弟、足利尊氏、足利直義なる、二人の男がおります。無才のゆえに国家にとっては何の役にも立たない人間であるにもかかわらず、全く恥ずかしげもなく、二人そろって、青雲の高官の位に、ついておるではありませんか!
彼らが誇っております、自分たちの功績、その内実たるや、まことにもって、噴飯(ふんぱん)モノ、手を打って大笑いしたくなるような、シロモノであります。
今のこの太平の世は、様々な人々の苦労の上に、築かれてきたのであります。
まず、国のあちらこちらに倒幕軍が決起し、それぞれの拠点を占拠して、幕府側勢力をおびやかしました。南には楠正成(くすのきまさしげ)が立ち、西には赤松円心(あかまつえんしん)が決起。それのみならず、蜂が一斉に飛び立つように、国の四方に倒幕の火の手が上がり、多くの者が、幕府を倒そうとの志に、虎のように目をランランと輝かせておりました。
このような情勢の中に、北条家よりの命に従って、足利尊氏は、一族全員を率いて、京都へやってきたのでした。
刻一刻と、形勢が朝廷側有利に傾いていくのを見てとった尊氏は、何とかして自分の命を全うしようと、ひたすら保身を図るようになりました。しかし、ウジウジといつまでも決心することができないまま、彼は、朝廷と幕府双方の勝敗の行くえを、じっと窺い続けました。そして、名越高家(なごやたかいえ)が戦場で落命したのを見届けた後に、ようやく彼は、丹波国(たんばこく)において、倒幕の兵を挙げたのでした。
上記に申し上げた事により、足利の功績なるものの実体が、明らかになったと思います。ようは、打倒・鎌倉幕府の気運が国中にみなぎる中、朝廷と幕府との闘争の場において、漁夫の利を得たということ、すなわち、他人の力をうまく利用した、ただそれだけの事では、ありませんか!
義兵を起こした者たちが京都に迫り、名越高家が戦死していなかったならば、尊氏の単独の力をもってしては、幕府に対して、対抗不可能であったでしょう。
このように考えるならば、尊氏が誇っているその忠功、それは決して、彼のものなんかではありません。「あの戦いの中に命を落としていった者たちの遺骸を前にして、尊氏よ、お前は恥というものを知らんのか!」と、叫びたくなってきます!
小さな忠功にもかかわらず、高い官位を手に入れた尊氏は、この義貞の忠義の行いを、しきりにねたんでおります。そこで、弁舌たくみに私の悪口を言いふらし、水が染み入るようにじわじわと、私を陥れるような陰謀を仕込んでいるのです。
彼の訴えは、全て、邪なものであります。
朝廷からの倒幕命令を受けて、私が上野国で決起したのは、5月8日でした。一方、尊氏が、倒幕軍の後ろにへばりつきながら六波羅庁を攻めたのは、5月7日です。関東・京都間の距離は、800余里あります、京都の情報がたった1日で、関東へ伝わるはずがない、なのに、尊氏は、「京都で幕府軍が敗退したという情報を聞いたので、義貞は倒幕の挙兵をしたのだ」などと、言うのです、なんというケシカランやつでしょうか、尊氏という男は! 虚言を言い触らして、真実を覆い隠す、これが、「足利の罪その一」です。
次に、尊氏の長男・足利義詮(あしかがよしあきら)が、わずか100余騎に守られながら鎌倉に帰還したのは、6月3日です。一方、私が、100万の軍勢を従えて、凶悪なる幕府勢力をたちどころに滅ぼしたのは5月22日。なのに、「義詮はたった3歳の幼い身でありながら、大将として立ち上がり、北条軍を相手に戦った」などと、陛下を欺くような事を吹聴するとは! その言ってる事と事実とが、あまりもかけ離れているではありませんか、まるで雲と泥との間に万里の隔たりあるがごとく! これが「足利の罪その二」です。
さらに、北条仲時(ほうじょうなかとき)、北条時益(ほうじょうときます)らが敗北した後、尊氏は、陛下のお許しも得ないまま勝手に、京都の中で警察官のように振る舞い、護良親王(もりよししんのう)殿下の部下らを、処刑してしまいました。担当職に任命されてもいないのに、勝手に警察権力を振りかざすとは、何たる不届き! これが「足利の罪その三」!
戦乱が収まった後も、関東の者らは未だ、心からは朝廷に従わず、国家の根元も枝もまだまだしっかりした状態になってはいない、というので、皇族方の中から将軍が任命されて、関東に派遣されました。その後、そのお方は、辺境の地で苦労されているというのに、尊氏は京都にとどまったまま、陛下からの度外れの厚遇を誇り、その皇族の方と肩をならべるような地位につこうとしました。その僭越無礼、どうにも、言い開きのできるものではありません。これが、「足利の罪その四」!
北条の残党が、わずかの勢力を結集して無謀な反乱を起こした時に、尊氏は関東8か国の統治委任を、朝廷に対して要求しました。その後の関東での彼の振る舞い、あれはいったいなんでしょうか! 陛下の御裁決をも無視して、国家に仇をなした反逆者らを養って恩を着せ、民を害しては、ひたすら私利を貪っています。陛下の御意志にそむいて、道理に反するような行為を繰り返すこと、まったくもって、はなはだしいものがあります。これが、「足利の罪その五」です。
「天体は大空を一巡りした後、必ず元の位置に還ってくる」とはいいながらも、成功と失敗が重なった末に、天下泰平がようやくもたらされ、陛下の偉大なる徳化が万民に行き渡ることとなりました。これも、もとはといえば、護良親王(もりよししんのう)殿下の、あのすばらしき智謀のお働きがあってのこと。なのに、尊氏は、様々に讒言を構えて、殿下を流刑の罪に陥れました。讒臣(ざんしん)国を乱る、暴虐(ぼうぎゃく)、誰かこれを悪(にく)まざらんや。これが、「足利の罪その六」。
陛下が護良親王殿下に対して刑罰をお与えになられたのは、殿下の驕りの心を押さえ、正しい道に引き戻そうとされての事でした。古代中国・殷(いん)王朝において、武丁(ぶてい)を桐宮(とうきゅう)の中に閉じ込めたのと同様の事でしょう。なのに、心ねじけた尊氏は、かねてからの怨みを晴らす絶好のチャンスとばかりに、陛下の御裁決の趣旨をムリヤリゆがめて解釈し、殿下を牢獄の中に閉じ込めて、地獄の苦しみを与えました。まさに、人面獣心の積悪(じんめんじゅうしんのせきあく)、なんという過酷な扱いを、堪え忍ばなければならなかったのでしょうか、殿下は! これが、「足利の罪その七」です!
北条時行軍の脅威の前に、足利直義は一戦もせずに、鎌倉から逃亡、その時、彼はひそかに配下の者を護良親王殿下のもとへ送り、殿下を殺害させました。この行為一つとって見ましても、足利兄弟が、国家を傾けんとの野心を持っている事の一端が、顕著に現れているではありませんか! この件に関しては深く隠匿されていて、未だに陛下のお耳には達していないようです。しかし、すでに皆の知るところとなっているのですから、隠し通すことなど、できるはずがありません。まぁそれにしても、臣下の分際でありながら、陛下の御子を殺害するとは、何たる大逆無道の行い! わが国の歴史においても、このようなあさましい事は、いまだかつて聞いたことがありません! これぞまさしく、「足利の罪その八ィ」!!!
このような八逆罪を犯した者を、天と地との間に生き長らえさせておいて、良いものでしょうか! 速やかに、足利兄弟を、厳罰に処すべきであります! さもなくば、天地を支えつないでいる四方の綱も断ち切られ、大地をささえる八本の柱も再び傾いてしまい、やがては、取り返しのつかない事態に至ってしまいます!
この義貞、ひとたび大軍を起し、百戦して敵の堅軍をうち破り、私の下に集まった数多(あまた)の兵卒らは、自らの死をも省みず、ついに逆徒・北条氏を武力をもって退け、たちまちのうちに、わが国家に平和をもたらしたのであります。
それにひきかえ、尊氏はどうだったでしょうか。「名馬の尾にくっついて、険しい山を超えたとかいう蝿」のように、他の人々の後について行きながら、幕府軍を攻め、籠の中に閉じ込められた鳥に弾丸を当てて殺すように、何の苦もなく、大きな功績を上げただけのこと。
この私と、あの尊氏と、いったいどちらを、陛下はより高く、評価なさいますのでしょうか?
足利尊氏は、陛下のご威光を奪ってそれを我が物にしようと、野心満々。よって、私のような義に生きる武士(もののふ)が朝廷の中に存在することが、非常に恐い。それゆえ、陛下に対して、「義貞を討伐してしまいましょう」と、さかんに訴えているのです。
私、新田義貞、忠義の心を傾け、正義を尽くして、陛下のおん為にわが一命を軽んじ、禍の芽がまだ出ていない今のうちに、足利尊氏を討伐せられんことを、訴え申し上げます。
この私の訴えを採用されるか却下されるか、いったいどちらが、理世安民の政治といえるのか、どうか、御思案下さいませ。
なにとぞ、公正なる御処断を下されまして、正義の利剣で、悪を一刀両断して下さいませ! どうか、足利尊氏、直義以下の逆党らを追討せよ、との御命令を! この義貞、天を覆う黒雲をも、たちまち払ってのけ、この日本の国土の上に、白日の光をさんさんと輝きわたらせてご覧にいれましょう!
義貞、おそれつつしんで申し上げます。
建武2年10月日
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足利と新田双方の奏状を前に、さっそく公卿たちは会議を開いた。
公卿F 皆様、ご覧のごとく、両者それぞれ、ガァンガン書いてきとりますわいなぁ。さてさて、これはいったい、どない判断したもんか・・・。
公卿たち ・・・。(一様に押し黙る)
坊門清忠(ぼうもんきよただ)が、前に進み出ていわく、
坊門清忠 足利、新田、両者の奏状を読んでみて、いったいどちらの言うてる事が、道理に合ぉてるんやろかいなぁと、つらつら考えてみたんですが・・・。
公卿たち ・・・。
坊門清忠 義貞が言うてる・・・それ、その、「足利の八逆の罪」ですか、八つのうちのどれ一つとってみても、軽い罪であるとは、言えんでしょうなぁ。
坊門清忠 とりわけ、護良親王殿下を、牢屋に押し込めたあげくに、殺害したとの件、陛下も初めて聞かれる話、ということになりましょうか。これがもしも、ホンマ(真実)の事やったら、尊氏、直義兄弟の罪責は、もはや逃れ難いでしょう。
坊門清忠 ただねぇ、一方の言い分だけ聞いて、断罪してしまうのは、いけませんわなぁ。軽率な判定下して、それが間違っていたとなっては、取り返しがつきませんから。
坊門清忠 ここは暫く、結論出すのん見合わせてですな、親王殿下殺害の話がホンマかウソかということを、きっちりと確認すべきでしょう。それがはっきりした後に、尊氏の罪科を定める、ということにしたら、どないですやろ?
公卿たち そこらへんが、妥当なセンでしょうなぁ。
ということで、その日の会議は、それで終わってしまった。
このような所に、護良親王の身の回りの世話をしていた例の女人、[南の方]が、鎌倉から京都へ帰還してきた。
彼女は、自分が目撃した親王の最期の様を、ありのままに報告、それを聞いて、朝廷は騒然としてきた。
後醍醐天皇 やっぱし、尊氏と直義は、朝廷に反逆するつもりなんやな!
このような驚くべき事実が明らかにされた所にさらに、四国と中国地方から、足利尊氏名の書状10通が、朝廷に提出された。
使者 足利殿から軍勢招集の書状を、送って来ました。征夷大将軍・発行書状の形式に、なっとりますでぇ。
かくしてついに、公卿会議で衆議一決、
「かくなる上は、足利兄弟の朝廷への反逆のたくらみ、疑う余地無し。早急に、足利追討の軍をさし向けるべし。」
そして、尊良(たかよし)親王を総司令官に任命、新田義貞を大将として、諸国の有力武士たちを率いさせて、足利追討の軍が関東へ繰り出されることとなった。
元弘の戦乱が収束した後、天下は朝廷のもとに統一され、万民は一応は平和の日々を過ごしていた。しかしながら、いまだ戦乱の余韻燻(くすぶ)り、民は完全なる安堵の息をつくまでに至ってはいない。なのに、また、戦いが・・・。
世間の声G 我が国はまだまだ、完全に落ち着いたとは言いがたい状態や。そやのに、またまた、えらい事が起こってもたでぇ。
世間の声H ほんまどすなぁ。国の方々から集まってきはった武士のお方らが、「天皇陛下の御命令やからな、行ってくるでぇ」言うて、東の方へ、どんどん行かはりますわ。
世間の声I なんか不安な日々やねぇ。日本は、これからいったい、どないなって行くんやろ?
世間の声J うちかて、毎日、ものすごい不安どす。いややなぁ。
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