ティータイムと読書
二日前から急に冷え込んで、あっという間に冬に向けて動き出したそうです。ストーブは出したものの「まだ耐えられる寒さだな」ということで、一度も始動していません。
これから冷気が入り込んでくるとの予報なので、さらに冬に向けて加速していくのかなぁなんて、お空と睨めっこです。
さて今日は、ティータイムと読書について。
・私の癒し時間
私の日々のちょっとした癒しは、お気に入りの紅茶やコーヒーやほうじ茶を、お気に入りの茶器に淹れて飲みながら本を読んだり、映画を観たり、文章を書いたりすることです。
今年の5月くらいから西洋占星術の本をあれこれと読み漁っているわけなんですが、昨日こちらの本が到着しました。(/・ω・)/ワーイ
「星詠みで才能を見つける本」 yuji著 講談社2024年発行
です。
・心理学的性格診断VS占いという存在
星詠みというのはホロスコープのことで、今回の星詠みというのは「西洋占星術」にあたります。占いで才能を見つけるなんて、とちょっと昔の私だったら偏見の目で見て嫌煙していたこと間違いありません。
私はこれまで性格診断や16性格診断、適職診断や心理学性格測定診断、ストレングスファインダーなどなど、各種諸々の診断を受けてきました。(学生時代学校で受けたのを含めるともっと)
進路を選ぶためだったり、仕事を選ぶためだったり、仕事の方向性や目的を設定するものであったり、その理由はその時々によって違います。
心理学をベースにした統計学、というのが何とも私の好きな分野で、本当に様々な診断を受けてきました。
ただ、性格診断をする時は「その時の」「自分の気分」「状態」といったものに選択肢が左右されたりするので、同じ日にもう一度判断しても「同じ結果」にならない場合がありますよね。また、その統計からの割り振りの基準になったりするようなものが各診断によって異なる場合があるので、ある会社とある会社の診断は似たようなことが書かれていても、別の会社が提供するものでは違うものが書かれている、というようなこともありました。
それに、最後まで初見でやってみて、やっはりあの回答、こっちの方が自分らしいかも…と、ぽちぽちし直すとさっきと回答違うじゃーん!とか。
結果は出て見直してみるんだけど「あれ?これはちがうぞ」「自分はこれは本当に心の底から苦手なんだよな」とかっていうのもありますよね。
だからと言って、そういうものを100%まるきり信用するのもなんか違うし。(受け入れがたい本当のことは避けたりも)
とは思いつつも、若い時は結構それが100%自分だと思ったりするんですよね。(純粋なもんだ)
占いも似たような側面があって、直感的な占い等はさておいて、四柱推命や算命学、占星術をやってみると同じような現象に直面することがあります。100%の側面ではないけれど「当たっていると思えるような要素がある」ということです。
結局は自分が認識して受け入れるか否か、という点で心理学的なアプローチからの性格診断と、占いという存在は考え方として似た要素があるのかもしれないなぁと思ったりします。(なにを選択するかは人それぞれでいい)
・合理的に考えてどうしようもない時に
私の好きな考え方で「合理的に考えてどうしようもない時に占いを道具として使う」(by鏡リュウジさん)というのがあります。
占いというのはエンターテイメントの一部で、現実にずぶずぶどっぷりはまってしまうのは非常に危険だし、個人的にはそちら側に行くのは違うなぁと思っている人間です。人間のある側面の一部として、占いを利用したければ個人の自由によって楽しめばいいと思っています。
・自分の望みがわからなくなった時
私は自分自身が何が好きで、どうしたいか、どうなっていきたいかというようなぼんやりとした希望や願望はあるのですが、それが本当に自分の望みなのかどうかわからなくなる時があります。
これは小さい時から「人の目を気にしすぎて生きてきた」弊害ですし、変えていきたいと思っている私の中の課題です。
「他人にどう思われるか」ばかりを気にしていたので、本当の自分の好きなこと、楽しんでいることをさらけ出したり、主張したり、楽しんでいることを口にすることが怖かったんですよね。そうすると、本当に自分が話したいこと、共感したいこと、共有したいことを話したり楽しめる仲間づくりというのがうまくいかなくなります。
他人から好かれる自分を演じていたり、そうしたベールをかぶってしまったままでの人付き合いは、何かしらの空虚感を覚えたり、本当に話したいことを我慢している状態がずっと続くので精神的に疲れてしまうんですよね。
こうした生き方をずっとしていくと、自分にどのような特性や特徴、特技や技能があるのかが見えなくなってきます。
心理学的な性格診断では「社会や通常コミニティの中で溶け込もうとする自分」として診断を受けるので、どうしてもそうした表の側面と本音の自分の側面の間に大きな溝ができた場合、なんだか違うというような違和感を感じてしまいます。
そうした合理性をとりあえず全部取っ払って、占いという合理的ではない方法の道具を使い、観測者の視点から自分についてもう一度俯瞰して全体を見ていくと、「ああ、そういえば、自分はこれが好きだった」とか「こういうことが本当はしてみたかった」とか、そうした望みが蘇ったり思い出されたりします。
もちろん、100%符合するわけではなくて、私の場合は90%ほどの意見の合致が取れた、という感じです。
「そうなんだ~」と知るというよりか、振り返って「そういえば、そうだった」と思い出す感じです。全く場当たり的な異なるような出来事を絵空事のように言われているという感じではなく、自分の中の隠してきた側面を思い出したり、再び見出したり、再評価できたというような印象です。
もちろん、人それぞれの考えの違いや受け取り方の違いはあるかと思うのですが、「合理的に考えてどうしようもない時」利用してみるのも手ではないのかなと思ったりします。
「星詠みで「才能」を見つける本」、個人的には読みやすい良本でおすすめなので、是非楽しんで読んでみてはいかがでしょうか??