一を聞いて十を知る【巻一⑧】
昨日の記事では、論語の世界を理解するには、3000年前にさかのぼる必要があることに気づいたことと思う。
今日は、周王朝が存在したとされる時代も含めて、中国史を最古の時代から大まかにたどってみよう。
私たちの多くは、遣隋使や遣唐使の存在は知っているから、隋や唐の時代がいつ頃かはなんとなく把握できているだろう。
あるいは、三国志が好きであれば、魏・呉・蜀の時代についても少々知識があるだろうか。
とにかく、次のとおり、紀元前の最古の時代にさかのぼって、時系列に順にたどってみよう。
①紀元前16世紀より前→夏(か)王朝
②紀元前16〜11世紀→殷(いん)王朝
③紀元前11世紀→周王朝(西周)
④紀元前770年→春秋時代(東周)
⑤紀元前300年→戦国時代
⑥紀元前221年→秦(しん)
⑦紀元前202年→前漢
⑧紀元後8年→新(しん)
⑨紀元後25年→後漢(ごかん)
⑩220年→三国時代(魏・呉・蜀)
⑪280年→西晋(せいしん)
⑫317年→東晋(とうしん)
⑬433年→南北朝時代(宋・斉・梁・陳)
⑭589年→隋
⑮618年→唐(907年滅亡)
以上である。
お分かりのとおり、孔子が生きた時代は、中国では春秋時代と呼ばれており、周王朝は、秦に滅ぼされるまで、春秋時代と戦国時代の戦乱に巻き込まれていた。
この時代の権力者といえば、斉(せい)の桓公、晋の文公、宋の襄公(じょうこう)、秦の穆公(ぼくこう)、楚の荘王(そうおう)が有名であり、互いに覇権を争っていた。
ここで、斉の桓公と晋の文公が登場する『論語』の一場面を紹介しよう。
第十四篇(=憲問篇)の16番目の章である。
子曰、「晉文公譎而不正、齊桓公正而不譎。」
子曰く、晉の文公は譎(いつわ)りて正しからず、齊の桓公は正しくして譎らず。
孔子からみれば、晋の文公より斉の桓公のほうが正しくて偽りのない権力者だったことがうかがえる。
続いて、17番目の章にはこんなことが書かれている。
子路曰、「桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死。」
曰、「未仁乎。」
子曰、「桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁。如其仁。」
子路(しろ)曰く、桓公、公子糾(こうしきゅう)を殺す、召忽(しょうこつ)之に死し、管仲(かんちゅう)は死せず。
曰く、未だ仁ならざるか。
子曰く、桓公諸侯を九合(きゅうごう)するに、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁にしかんや、其の仁にしかんやと。
以上である。
子路が登場するが、孔門十哲の一人であることは、先週触れたとおりである。
子路は、どの分野で優秀だったか覚えているだろうか。
さて、「桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死。」という部分では、桓公のほか公子糾、召忽、管仲という人名が登場する。
殺すとか死ぬとかいうのは穏やかではないが、子路は孔子に何を尋ねて、孔子はどう答えたのか。
続きは、木曜である。