歴史をたどるー小国の宿命(51)
源義朝の父親の為義、幼い弟たちが斬首の刑を受け、義朝自身は勝者の側にいながら、同じく後白河天皇の味方だった平清盛とは、恩賞に差があった。
戦果と引き換えに家族の助命を願っても聞き入れられず、待遇も悪いとなると、我慢の限界だろう。
義朝は、とうとう信西に対して反旗を翻したのである。
信西に対して刃向かうということは、清盛と戦うことを意味する。
後白河天皇はすでに、自分の子どもである第78代の二条天皇に譲位し、院政を行っていた。
1159年、保元の乱に続く平治の乱が起こった。
追いつめられた信西は、自害する。たまたま京を離れていた清盛は、反乱の情報を聞いて戻ってくる。
ここから2週間で、事態は一変する。
清盛は、用意周到に中立的な立場で、後白河上皇側にも二条天皇側にもうまく取り入って、徐々に権力を掌握していく。
清盛側の勢力に押された義朝は、いったん東国(今の関東)に逃げ帰って体勢を立て直そうとするが、道中で身内に裏切られて殺されてしまう。
こうして、清盛が率いる平氏一族が台頭したのである。
1160年から25年間、平氏が実権を握ることになるが、頼朝はこのときどういう状況に置かれていたのか。
ちなみに、島流しの刑を受けた崇徳上皇は、1164年まで生きていた。