古典100選(94)月のゆくへ
第84回で紹介した『水鏡』とそのほか『大鏡』『今鏡』『増鏡』の3つの歴史物語において、初代の神武天皇から代々の天皇の時代は、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒まですべて途切れることなく語られてきたと思っている人もいるだろうが、実は空白の時代があった。
第80代の高倉天皇と第81代の安徳天皇の時代である。
この空白の時代については、かつて藤原隆信が書いたとされる『弥世継』(いやよつぎ)で書かれていたのだが、実は現存していない。
その穴を埋めるかのように、江戸時代に、荒木田麗女(あらきだれいじょ)という女性の文学者が『月のゆくへ』という歴史書を書いた。
平安時代当時の雅文体を真似して書いたので、江戸時代の作品とは分からないだろう。
では、原文を読んでみよう。
①小松の大臣(おとど)は、日ごろ悩み給ふと聞こえしに、御心地の隙(ひま)おはしけるにや、み熊野に詣で給ふ。
②御子の殿ばら、春宮の権の亮、資盛の少将、清経など、皆御供に参り給へり。
③されど、ことごとしきさまならずやつし給へるしも、君だちの御装ひばかりは、いづれとなくなつかしう清げに見え給ひぬ。
④帰り給ひて後、大臣はまめやかに苦しうし給ふとて、をさをさ起きも上がり給はず、ものなども見入れ給はで、ほど経(へ)給へば、入道殿もいみじう思し騒ぎて、御祈りこちたくせさせ給ふ。
⑤内裏(うち)にも、宮の御百日(ももか)の折、候ひ給へるのみにて、その後、たえて参り給はず。
⑥弥生、表(ひょう)奉りて、内大臣も辞し申し給ひし。
⑦五月二十日、年ごろの本意とて、様変へ給ひにき。
⑧親ある人の背きぬるもめづらしう、親にならひて入道の殿と聞こゆる例(ためし)もまれなりとぞ、世には申し侍り。
⑨さてだに平らかにおはしましなばと、親族の人々思いたり。
⑩院さへ聞こし召し驚きて、この心地訪(とぶら)はせ給ふとて、忍びて御幸おはします。
⑪大臣いといたう驚きかしこまり給ふ。
⑫かう面立(おもだ)たしきにつけても、いよいよ惜しう悲しく、いかにしても掛けとどめ奉るわざもがなと、兄弟の殿ばらも思しまどはれ給ふ。⑬秋になりても、なほさはやぎ給ふこともなく、世の中、心細う思したり。
⑭上、君だちなど、心をまどはして、夜昼見奉り扱ひ給ひしに、八月朔日、つひにあさましうなり給へり。
⑮四十に二つぞ余り給へる。
⑯いまだ盛りのほどにて、御髪おろしつるをさへ、誰も誰もあたらしう思いたりし、まいて言はむかたなくこそは。
⑰今の世のかしこき人と言はれ給ひ、心ばへのなだらかに、らうらうじう、仕ふる道もまめやかに、人をもよくいたはりて、知る知らぬ分かず、情け情けしうものし給ひしかば、内にも院にも惜しみ聞こえさせ給ひ、上人(うえびと)なども、なべてくちをしう思ひ嘆き給ふめり。
⑱この御蔭に隠れたる男女、すべて月日の光失ひつる心地して、思ひ嘆くこと限りなし。
⑲宮も御服にて出でさせ給へり。
⑳北の方、君だちなどは、ただくれまどひておはするもことわりぞかし。
㉑御法事など過ぎて、十月ばかり、北の方のもとに中宮の右京の大夫、
かきくらす 夜の雨にも 色変はる
袖の時雨(しぐれ)を 思ひこそやれ
㉒返し、北の方、
おとづるる 時雨ぞ袖に あらそひて
泣く泣く明かす 夜半(よわ)ぞかなしき
㉓上は、入道ののどめたる心なく、急にものし給へば、世の政(まつりごと)にも、折に触れてひがひがしうなどあるを、この大臣のよろづにいさめ給ひしによりてなむ、なにごともなだらかに目安かりしを、今行く先、いかになりゆく世にかと、うしろめたう安げなく、思し嘆かせ給へるもことわりに、候ふ人々も見奉る。
以上である。
登場人物が分からないと何のことやらさっぱりだと思うので、簡単に触れておこう。
小松の大臣というのは、平清盛の長男である平重盛である。入道殿は、平清盛のことである。
その小松の大臣が、⑭⑮のとおり、8月1日に42才で亡くなった場面である。
平重盛は、保元の乱と平治の乱で活躍した。父親の清盛の後継者として有力視されていたが、上記の文中にも登場する後白河院と清盛の対立の中で病死してしまったので、平家は一気に衰退したのである。
㉑で歌を詠んだのは、本シリーズでも登場した建礼門院右京大夫である。
⑤の「宮の御百日」は、安徳天皇がまだ生後間もないことを示していて、上記の文章に登場する「上」は高倉天皇のことである。