【続編】歴史をたどるー小国の宿命(26)
信長が自害に追い込まれ、この世にいないとなると、周辺の戦国大名や足利義昭にとっては、恐怖心など吹っ飛んでしまうくらい、俄然勢いづくことは容易に想像できるだろう。
だからこそ、大阪を遊覧中だった家康は、信長の訃報に接したとき、自身の身の危険を感じ、あわてて逃げ帰ったのである。
実際に、家康の供をしていた者は、家康と別ルートで逃げ帰ったのだが、道中で斬り殺されている。(家康が命を狙われていた証であろう)
それだけ、信長の脅威が大きかったということである。
しかし、本能寺から誰よりも遠いところにいたはずの秀吉の逆襲は、光秀の予想外の出来事であり、秀吉の情報収集能力と迅速な行動力は、驚異的なものであった。
備中国の備中高松城付近(今の岡山県岡山市)にいた秀吉は、それよりも西側にいる毛利軍に、信長の訃報が知られないようにする必要があった。
毛利軍の味方の密使が、京都からひそかに秀吉軍の目に触れないように移動してくる可能性があったし、それを止められなかったら、勢いづく毛利軍に秀吉がやられてしまう。
だから、秀吉はすぐに毛利軍との講和条件を整理して迅速に交渉を取りまとめ、なおかつ、相手方に悟られないように、京都へ急ぎ引き返したのである。
これは、秀吉軍の「中国大返し(おおがえし)」と呼ばれている。
なぜそう呼ばれるのかというと、岡山県岡山市から京都府南部の大山崎町(おおやまざきちょう)までの230キロを、わずか10日間で引き返したからである。
1日23キロの移動は普通じゃないの?と思うかもしれないが、鎧に甲冑を身にまとうとどれくらい重いか想像するとよい。
また、今みたいに、道路が整備されているわけではない。トレイルランで山の中を走ったことのある人なら分かると思うが、一般的な道のハーフマラソンと山道の20キロは、全然違う。
それを重い武具を背負って移動し、しかも集団行動である。万が一の毛利軍の追っ手も気にしなければならないし、京都から迫り来る敵に遭遇するかもしれない。
そんな状況で、まさか自分が秀吉と戦って負けるとは、明智光秀も夢にも思わなかっただろう。
続きは明日である。