現代版・徒然草【50】(第121段・ペット)
今では、ペットショップにさまざまな生き物が陳列される時代になり、生き物への愛着なのか、単に癒やしの対象なのか、人間の自己都合でペットが飼われる(買われる)ようになった。
では、原文を読んでみよう。
①養ひ飼ふものには、馬・牛。
②繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。
③犬は、守り防ぐつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。
④されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
⑤その外の鳥・獣(けだもの)、すべて用なきものなり。
⑥走る獣は、檻にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅(つばさ)を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁へ、止(や)む時なし。
⑦その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。
⑧生(しょう)を苦しめて目を喜ばしむるは、桀(けつ)・紂(ちゅう)が心なり。
⑨王子猷(おうしゆう)が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。
⑩捕へ苦しめたるにあらず。
⑪凡そ、「珍らしき禽(とり)、あやしき獣、国に育(やし)なはず」とこそ、文にも侍るなれ。
以上である。
一つ一つが短い文であり、難しくもないので、①から⑤まで一気に解説していこう。
馬と牛は、生活上なくてはならないものであり、繋ぎ留めて飼うのは心苦しいが仕方がない。また、犬は番犬としての役割を担ってくれるけど、みんなが飼うほどでもない。(地区に数匹いれば十分だ。)だが、それ以外は、飼う必要がない。
⑥⑦の文にもあるように、本来は野山を走る動物や鳥が、檻や籠に入れられ、鳥は羽を切られる。それを可哀想だと思える人は、心から楽しんで生き物を飼えるだろうか、いや飼えないだろう。
⑧から⑪の文で、兼好法師は中国の歴史書を引用し、生き物を苦しめて愛でるのは、かつての中国の残虐な王である桀と紂と同じだと言っている。王子猷という人のように、散歩の友として、林の中で鳥たちと戯れる例を挙げ、彼は鳥を捕らえて苦しめていないと付け加えている。
最後の⑪では、珍しい鳥や珍獣は、国は保護すべきだと締めくくられている。
現代は、そういったたぐいの保護条例はあるが、私たちは、いつからペットを玩具のように、ビジネス対象として、扱うようになったのであろうか。