現代版・徒然草【52】(第47段・くしゃみ)
くしゃみは、昔は「鼻ひ」(=はない)と言っており、平安時代以降は、くしゃみをするとその瞬間に魂が抜けて死ぬからまじないをするという習慣があったそうである。
そのまじないが、「くさめくさめ」と何度も唱えるものだったらしい。
くしゃみをするときの「クシャン」が「くさめ」に転じたのだろうか。それが、今では「くしゃみ」と言うようになり、死ぬなんて言ったら笑われる時代である。
では、原文を読んでみよう。
①或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前(あまごぜん)、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしなひきみ)の、比叡山に児(ちご)にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。
②有り難き志なりけんかし。
以上である。
本シリーズも50回以上続けているが、最初は古語に苦手意識があった人も、比較的読みやすくなっているかと思う。
ある人が清水寺に参拝するときに、年老いた尼さんを連れていたのだが、道の途中で、「くさめくさめ」とぶつぶつ言っていたので、「尼様、何をぶつぶつ言っているのですか?」と聞いても答えない。
なおもぶつぶつ言い続けるので、何度も問われて、しまいには腹を立てて、「自分が乳母として育てていた子が、比叡山に修行に行っているが、まさに今、くしゃみをしているかと思うと、まじないをかけずにはいられないのだ。」と言ったそうである。
それで、兼好法師が最後に結んでいる「有り難き志なりけんかし」という文であるが、皮肉っているのか、親心に共感しているのかよく分からない。
しかし、現代でも、年老いた婆さんが、何やらぶつぶつ言いながら歩いているのは、都会でも田舎でも見かける。
自分の母親がこんなふうにはなってほしくないなあと思うのは、私だけだろうか。