20世紀の歴史と文学(1904年)

1904年2月10日、双方の宣戦布告をもって、とうとう日露戦争が正式に開戦された。

日露戦争はなるべく回避しようと、日本側からロシアに対して、前年の8月から妥協案の交渉が続いていた。

案の内容は、簡単に言えば、朝鮮半島は日本が支配し、ロシアは満州を支配するというものだった。

当時の状況をよく知らないと、日本の目的が理解できないと思うが、もともと日清戦争は、李氏朝鮮がずっと中国(=明や清)の属国だった(→冊封体制という)ことから、朝鮮半島を中国の影響下から解放させるという名目のもとで行われた。

その日清戦争に日本が勝利したことにより、1897年に李氏朝鮮は独立を果たし、国名を「大韓帝国」に改めた。

この大韓帝国が、当時は日本の影響下にあった。

ところが、ロシアが南下してきて、朝鮮半島の目と鼻の先にある遼東半島や、中国の北東部にある満州を支配下に置こうとしたので、今で言えば、北朝鮮と中国の国境が、ロシアと日本の領土の境界線となったときの状況が憂慮されたわけである。

ロシアは、日本側の妥協案には乗らず、朝鮮半島に関しては、北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での土地利用を禁じる案を出してきた。

これによって、日本側は交渉打ち切りを決断、2月6日には国交断絶を通告したのである。

ロシアはなぜ、「北緯39度以北」にこだわったのか。

それは、朝鮮半島北部(今の北朝鮮)では、ロシアがすでに利権を確保しており、そのエリアの森林伐採権や鉱山採掘権を保有していたのである。

だからこそ、朝鮮半島を丸ごと日本に渡すわけにはいかなかった。

今、朝鮮半島が北緯38度を境に、北朝鮮と韓国に分断されているが、あれは厳密な意味では軍事境界線である。

100年以上が経った現代においてもなお、ロシアは北朝鮮に影響力を持っている。

さて、日本も名目上は、朝鮮半島は1ミリもロシアに渡さない(つまり、現地の人たちの独立を引き続き守るのだ!という口実)と言っておきながら、さらなる領土拡大と賠償金獲得を目論んでいたことは事実である。

日清戦争の勝利で得た賠償金は、官営八幡製鉄所を建てるなどして使い果たしたので、財源がほとんど枯渇していた。

日露戦争の開戦から半年後、与謝野晶子の弟が、陸軍の予備兵として従軍することになった。

それを嘆いて、与謝野晶子が雑誌『明星』に「君死にたまふことなかれ」という詩を掲載したのが、1904年9月のことだった。

ちなみに、『明星』は1900年に与謝野鉄幹が創刊した月刊文芸誌である。

与謝野鉄幹の妻が、与謝野晶子だった。

当時の文学者だった大町桂月(おおまち・けいげつ)は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と『太陽』という雑誌に寄稿して非難した。

「君死にたまふことなかれ」は、120年の時を経た今、ウクライナでも話題になっている。


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