歴史をたどるー小国の宿命(9)

ここまで振り返ってみると、大宝律令の制定から大仏造立まで、天武系の皇族は、約50年かけて国づくりを進めていった。

さて、いつの時代もそうであるが、政治家の功績の陰には、その臣下(今では官僚)の努力や才能がある。

もちろん、いくら有能な部下がいたとしても、上に立つ者がリーダーシップを発揮できなければ、宝の持ち腐れと同じである。

藤原道長が栄華を極めたのも、彼一人の力でできたわけではない。祖先の存在があってこそなのである。

では、藤原道長の祖先は誰だったのか?

学校での歴史の勉強を覚えている人なら、645年の大化の改新については、ある程度知っているだろう。

この大化の改新の立役者は、中臣鎌足と中大兄皇子であり、中大兄皇子はのちに天智(てんじ)天皇になった。天智天皇の弟が天武天皇であり、二人の母親は、皇極(斉明)天皇である。

それで、中臣鎌足であるが、彼こそが藤原氏一族の祖先なのである。

中臣鎌足は、自身が死ぬ前日に、天智天皇から「藤原」の姓を与えられ、最期は藤原鎌足として死んだ。

彼の死後は、その息子の藤原不比等(ふひと)が活躍し、持統天皇に仕えたり、大宝律令や『日本書紀』の編纂に携わったりして、当時の政権のブレーンとして名を残した。

一説には、天智天皇の隠し子が、藤原不比等であり、中臣鎌足は実の父親ではないと言われている。

このように天皇の腹心として活躍した鎌足や不比等の存在があったからこそ、道長が栄華を極める土台ができていたわけである。

歴史は、これだけ奥深いのである。学校の授業では、細かく見ていくとあまりにも時間が足りないから、どうしても年号や主な出来事の暗記に終わり、暗記が苦手な生徒が歴史嫌いになってしまうのである。




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