【続編】歴史をたどるー小国の宿命(86)
幕末の京都の治安が悪化する中で、島津久光が朝廷の勅書によって進言した「文久の改革」が幕府の手で行われた。
その改革のひとつが、第83回の記事ですでに触れたとおり、京都守護職の新設である。
この京都守護職には、会津藩の第9代藩主だった松平容保(かたもり)が任ぜられた。1862年のことである。
この松平容保については、マガジンに収めている第59回の記事をご覧いただければ、彼がいかに将軍家に忠誠を誓っていたかが分かるだろう。
明治政府の新政府軍と徹底抗戦したのも彼である。
また、新選組の名付け親も彼であり、「八月十八日の政変」と呼ばれる事件以後、新選組は、容保の指揮下で京都の治安維持に奔走したのである。
さて、「八月十八日の政変」とは何かというと、孝明天皇の意思によって決行された、穏便派による早朝4時の反クーデターである。これは、松平容保が京都守護職に任ぜられたちょうど1年後の出来事である。
穏便派とは、公武合体派であり、急進的な尊王攘夷派の長州藩とは対極の立場であった。
その長州藩と手を組む朝廷内の公卿・三条実美らによって、孝明天皇の知らないところで倒幕の計画(=クーデター)が進んでいた。
この事態を憂慮した孝明天皇と、薩摩藩の島津久光や会津藩の松平容保らが、三条実美ら7名の公卿と長州藩を京都から追放することにしたのである。
先週の記事で触れたとおり、孝明天皇は倒幕運動も過激な攘夷運動も望んでいなかった。
攘夷思想があるというだけで、長州藩に利用されていたのである。
穏便派の会合による決定で、長州藩は朝廷の警備役を解かれ、薩摩藩や会津藩とは敵対することになった。
長州藩は孤立することになるが、それでも孝明天皇の拉致や松平容保らの暗殺を、一部の藩士たちが計画していた。
それが翌1864年にバレて、新選組の襲撃を受けることになる。これが「池田屋事件」と呼ばれた。
この事件により、長州藩は完全に朝敵(=朝廷の敵)とみなされ、幕府はこの機会に乗じて、長州征伐を薩摩藩をはじめ雄藩(=経済力や軍事力のある有力藩のこと)に命じたのである。
このとき長州征伐の参謀役に任ぜられたのが、西郷隆盛であった。