【続編】歴史をたどるー小国の宿命(75)
父親の家斉が死去してから、12代将軍の家慶は、1853年まで将軍職に就いていた。
1853年といえば、アメリカのペリーが浦賀沖に4艘の黒船で来航した年である。
なぜ、そのときの将軍の対応が歴史上で話題にならないかというと、ペリーが来た6月3日は、家慶は死の3週間前であり、公務ができる状態ではなかったようである。
黒船来航で、日本は大きな転換期を迎えるのだが、そのことは来週に触れることにしよう。
その前に、家慶の在職期間に起こった出来事にさらっと触れておく。
昨日の記事でも解説したが、家慶は、老中に水野忠邦を重用した。水野忠邦は、財政立て直しのために、これまでのぜいたくな将軍家の慣習を改めて倹約を徹底しようとしたのだが、やはり家慶も同様で倹約生活にはなじめなかったようである。
周りの反発も大きくなったことから、結局、水野忠邦を2年で罷免することになった。(その1年後に、家慶はまた水野を再任用したが、もはや水野は役に立たなかったそうである。)
さて、時代劇ドラマで『暴れん坊将軍』は人気があったが、もうひとつ『遠山の金さん』も人気だった。
この遠山の金さんも、実在した町奉行であり、実は、天保の改革を行なった水野忠邦と対立していた。
幕府の倹約令には、遠山景元(=金さんの本名)も一定の理解を示していたが、町人の商売にまで制限があり、武士はそこまで厳しくないという待遇の差を問題視したのである。
具体的には、「寄席」の営業について、金さんは「停止」でよいのではないかと幕府に伺いを立てたが、水野は「全面撤退」を主張した。
最終的には、金さんがいくらか譲歩を幕府から引き出すことに成功したのだが、実は、町奉行の跡部良弼は、水野忠邦の弟だったのである。
吉宗と大岡忠相が、将軍と町奉行の関係を活かして享保の改革を進めたのは結果的に良い方向に転じたが、水野の場合、さすがに身内同士だとうまくいかなかったことだろう。
このように、それなりの身分の者は、財政が悪化しても倹約に文句を言って、町人以下の庶民たちは、我慢を強いられた。
この身分による貧富の差は、時代がどんなに進んでも、変わっていない。
アヘン戦争から黒船来航までは、坂本龍馬をはじめ、幕末の志士たちの成長期(子どもから大人へ)に重なっており、また彼らにとっては、知識やスキルを積極的に吸収できた年頃であった。
とうとう鎖国政策をやめて開国を迫られた日本は、歴史上初めて、アメリカと対峙することになったのである。