【続編】歴史をたどるー小国の宿命(46)

1543年に鉄砲がポルトガル人により日本に伝わり、その6年後には、キリスト教がスペイン人のフランシスコ・ザビエルによって伝えられたことは有名である。

その年から、江戸時代が始まるまでの間は、実は50年余りしか経っていないことに、まず注目しておきたい。

つまり、鉄砲の伝来が歓迎され、キリスト教の布教も大きな反対もなく、鹿児島や長崎から順次広がっていったのだが、江戸幕府は、事態の成り行きを見て、禁止の方向へ舵を切ったのである。

今では、キリスト教の信仰者をクリスチャンというが、当時は、キリシタンと呼ばれたのだろう。よく似た発音ではある。

キリスト教の布教に好意的な戦国大名は、宣教師や海外の人たちとの交流の輪も次第に広がり、日本のことを知りたがる外国人たちの手による見聞録も増えていった。

文化的交流の側面では良いことかもしれないが、キリスト教の信仰者が大きなグループを形成すると、それは権力者にとって脅威的な存在となる。

ましてや、鉄砲まで伝わっている時代である。

外国人と手を組めば、いくらでも鉄砲を仕入れて、江戸に乗り込んでくるかもしれない。

キリスト教の布教は建前であって、実はスパイ活動のために潜っているのではないかと疑心暗鬼にならざるを得ないだろう。

実際に、家康の近臣にキリシタンはいたのだが、家康は、これまでの寛容的な態度から一変して、厳しい弾圧を行い、自分の言うことを聞かないと、最後は額に十字の烙印を押したり、手足の指を切断したりして、拷問レベルの処罰を行った。

そして、多くのキリシタンや宣教師たちは、幕府の直轄地からは追放され、豊臣家がまだ残っていた大坂城に身を寄せるようになった。

大坂城には、秀吉が朝鮮出兵をしていた時期に誕生した息子の秀頼がいた。

彼は、まだ徳川家よりは融和的な態度を取っていたのである。また、信長が築城した安土城の城下にも、生前の信長がキリスト教の保護をしていたことを知っている者が残っていたわけだから、まだ布教がしやすかったかもしれない。

しかし、時すでに遅しであり、1614年には、全国にキリスト教禁止令が出され、宣教師追放令も併せて出された。

大坂冬の陣が、その年の暮れに起こった遠因ともなったのである。


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