【続編】歴史をたどるー小国の宿命(83)
おとといの「生麦事件」の記事では、薩摩藩の島津久光が登場していることに気づいただろうか。
よくある勘違いであるが、生麦事件に遭遇した島津久光は、薩摩藩の藩主ではない。
島津久光の長男である茂久(もちひさ)が、その当時の薩摩藩の藩主であった。
実は、島津斉彬(なりあきら)がその前の代の藩主だったのだが、久光の長男である茂久は、斉彬の養子でもあった。
その島津斉彬は、日米修好通商条約が調印された年に50才で病死するのだが、生前の遺言により、久光の長男が藩主を務めることになった。
久光は、藩主の実父というだけで、何の肩書きもないのだが、実は、1862年の「文久の改革」の立役者である。
ここで、薩摩藩主が、外様大名であることに留意しよう。
外様大名は、江戸から遠いところに配置され、他の大名より参勤交代などの移動の経費が高くつくという不利な条件で藩の財政管理をしていたわけである。
家康や秀忠、家光の時代は、いくら不満があっても何をされるか分からないので、全国各地の外様大名はグッとこらえるしかなかった。
ところが、久光が見ていた幕末の光景は、幕府に異を唱えるチャンスであった。
黒船来航にあたふたして、攘夷派の孝明天皇は幕府の対応に激怒し、開国派の井伊直弼は桜田門外の変で殺される。
その上、14代将軍の家茂は、日米修好通商条約の翌年にわずか13才で将軍に就任し、初めは井伊直弼が幕政の主導権を握っていたが、井伊直弼が暗殺されると、幕府は弱体化したも同然であった。
そんな中で、久光は自ら上洛して、孝明天皇と対面し、「文久の改革」の案を示したのである。
その案の内容は、参勤交代の制度改正、将軍・家茂の後見職として一橋慶喜の就任、過激な攘夷派の取締強化のための「京都守護職」の新設、洋学研究の推進などであった。
これらの案を孝明天皇による勅書として江戸に持って行き、改革を朝廷から幕府に働きかける形で提案するという役目を、久光は果たしたのである。
生麦事件は、その役目を終えて、江戸から戻る道中(=東海道)で起きてしまった。
ただ、この島津久光は、今の上皇様の高祖父である。
つまり、島津久光の長男のひ孫は、上皇様(=平成天皇)なのである。
孝明天皇と島津久光が、今の天皇陛下につながっていることを知らない人は多いのではないだろうか。