歴史をたどるー小国の宿命(83)
安達泰盛が自害に追い込まれることになった「霜月騒動」があった1285年は、奇しくも、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡してちょうど100年後であった。
安達氏一族は、泰盛の異母妹である覚山尼の庇護のおかげで子どもたちが生き延びたように、完全に滅亡したわけではなかった。
いっときは権力を握った平頼綱であるが、8年後に彼自身も殺されることになる。
平頼綱を殺すよう命じたのは、誰あろう、北条貞時である。
8年経ったとき、貞時は22才になっており、年齢的にも頼綱の野心にはうすうす気づいていた。このままでは、一緒に政権を担うことはできないという危機感を覚えた貞時は、内密に暗殺計画を立てた。
折しも、1293年は、M7級の鎌倉大地震が起こった年である。
その大地震による人々の混乱に乗じて、貞時は、頼綱の邸宅の襲撃を命じたのである。
平頼綱も、最後は安達泰盛同様に、自害に追い込まれた。
この地震だけでなく、深刻な干ばつも起こったので、当時は、元号を改めることになった。
新しい元号が「永仁」(えいにん)と定められたことにより、鎌倉大地震は、別名で「永仁の関東地震」とも呼ばれる。
そして、貞時がほかにも抱えていた難題解決のために、「永仁の徳政令」を発出したのがその4年後だった。