古典100選(54)増鏡
今日は、初回の『大鏡』、第38回の『今鏡』に続く『増鏡』(ますかがみ)の紹介をしよう。
作者は不明だが、この作品は後鳥羽天皇が生まれた1180年から、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒す1333年までの出来事が描かれた歴史物語である。
室町時代初期の1350年頃の作品である。
では、原文を読んでみよう。
①正元元年三月五日、西園寺の花盛りに、大宮院、一切経(いっさいきょう)供養せさせ給ふ。②年ごろ思し掟てけるをも、いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いとかしこく、ありがたき御ことなれば、院もおなじ御心に居立ちのたまふ。③楽屋の者ども、地下(じげ)も殿上も、なべてならぬを選りととのへらる。
④その日になりて行幸あり。
⑤春宮(とうぐう)もおなじく行啓なる。
⑥大臣、上達部、みな表(うえ)の衣にて、左右に分かちて、御階(みはし)の間の勾欄に著(つ)き給ふ。
⑦法会(ほうえ)の儀式、いみじさめでたきことども、まねびがたし。
⑧またの日、御前の御遊びはじまる。
⑨帝、御琵琶なり。
⑩春宮、御笛。
⑪まだいと小さき御ほどに、みづら結ひて、御かたちまほにうつくしげにて、吹きたて給へる音の、雲居(くもい)を響かして、あまり恐ろしきほどなれば、天つ乙女もかくやとおぼえて、太政大臣事忌(ことい)みもえし給はず、目押しのごひつつためらひかね給へるを、ことわりに、老いしらへる大臣、上達部など、みな御袖どもうるひわたりぬ。
⑫女院(にょういん)の御心のうち、まして置き所なく思さるらんかし。
⑬前(さき)の世も、いかばかり功徳(くどく)の御身にて、かく思すさまにめでたき御栄えを見給ふらんと、思ひやり聞こゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。
⑭御遊びはててのち、文台(ぶんだい)召さる。
⑮院の御製(ぎょせい)、
色々に 枝を連ねて 咲きにけり
花もわが世も 今日盛りかも
⑯あたりを払ひて、際(きわ)なくめでたく聞こえけるに、主(あるじ)の大臣の歌さへぞ、かけあひて侍りしや。
色々に 栄えて匂へ 桜花(さくらばな)
我が君君(きみぎみ)の 千代の挿頭(かざし)に
⑰末まで多かりしかども、例の、さのみはにて、とどめつ。
⑱いかめしう響きて帰らせ給へるまたの朝(あした)、無量光院の花のもとにて、大臣、昨日の名残思し出づるにいみじうて、
この春ぞ 心の色は 開けぬる
六十(むそじ)余りの 花は見しかど
⑲その年の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。
⑳御諱(いみな)恒仁(つねひと)と聞こゆ。
㉑世の中にさまざまほのめき聞こゆることあれば、帝は飽かず心細う思されて、夜居(よい)の間の静かなる御物語のついでに、内侍所の御拝(ごはい)の数を数へられければ、五千七十四日なりけるを承りて、弁内侍(べんのないし)、
千代といへば 五つ重ねて 七十(ななそじ)にあまる日数(ひかず)を 神は忘れじ
㉒かくて、十一月二十六日に下り居させ給ふ夜、空の気色(けしき)さへあはれに、雨うちそそぎて、もの悲しく見えければ、伊勢の御(ご)が、「あひも思はぬ百敷を」と言ひけんふることさへ、今の心地して、心細くおぼゆ。
㉓上(うえ)も思しまうけ給へれど、剣璽(けんじ)の出でさせ給ふほど、常の行幸に御身を離れざりつるならひ、十三年の御名残り、ひき別るるは、なほいとあはれに、忍びがたき御気色を、悲しと見奉りて、弁内侍、
今はとて 下り居る雲の 時雨(しぐ)るれば
心の内ぞ かき暗しける
以上である。
ここで登場する「大宮院」「院」「帝」「春宮」とは、それぞれ後嵯峨院の妻である西園寺姞子(きつし)、後嵯峨院、後深草天皇、(後深草天皇の弟の)亀山天皇のことである。
①の「正元元年」とは、後深草天皇が、弟の亀山天皇に譲位した重要な年(=1260年)であり、実は、両親の後嵯峨院と大宮院は、後深草天皇より弟の亀山天皇を溺愛したのである。
これによって、後深草天皇の不信感は募り、後に皇室が後深草系と亀山系に分かれて対立し、それぞれ持明院統(=北朝)と大覚寺統(=南朝)の間で争いが起こった。
上記の文章の①から㉓は、いわゆる南北朝対立の火種のお話である。
5つの和歌の内容にも注目するとおもしろい。