20世紀の歴史と文学(1956年)

第5次吉田内閣の後を受けて、約2年間にわたって1956年の年の暮れまで内閣総理大臣を務めたのは、鳩山一郎だった。

鳩山一郎の孫は、2009年に自民党を倒して政権交代を成し遂げ、第93代内閣総理大臣になった当時の民主党所属の鳩山由紀夫である。

実は、鳩山一郎は、今の自民党の初代総裁である。自民党が誕生したのは、1955年の第3次鳩山内閣のときであり、その年から1993年まで38年連続で、自民党は政権を維持し続けていたのである。

この長期にわたる自民党政権が一時的な終焉を迎えたとき、「55年体制の崩壊」として大きな話題になった。

55年体制というのは、1955年のことであり、55年続いたという意味ではないことに注意したい。

本シリーズでは、今後も55年体制についてときどき触れることになると思うが、ここでの解説内容は覚えておくと良いだろう。

ちなみに、今の岸田首相は、第27代の自民党総裁である。

第3次まで続いた鳩山内閣は、ある出来事を「花道」代わりにして、内閣総辞職した。

鳩山一郎は、内閣総理大臣就任時は71才、総辞職したときは73才、その後ほどなくして76才で亡くなった。

そんな高齢の身でも、歴史に残る交渉を行い、実現したのがソ連との国交回復だった。

ソ連とは、第二次世界大戦が終わってからもずっと「戦闘状態」にあり、1951年のサンフランシスコ平和条約のときもソ連は条約調印を拒否して、日本と講和を結ばなかった。

それはなぜかというと、日本に引き続きアメリカ軍が駐留することが決定していたし、何より日米安全保障条約が同時に締結されたからである。

ソ連からすれば、目と鼻の先にアメリカ軍の基地を置かれているようなものだからである。

ただ、日本にとっては、ソ連との国交回復をきっかけに、北方領土問題の解決につなげる必要があった。

その大役を担ったのが、鳩山一郎だった。

鳩山一郎は、スターリン死去後に後継者として実権を握ったフルシチョフと、国交回復と北方領土返還について、交渉の議題にした。

北方領土は、歯舞群島・色丹島・択捉島・国後島の4島である。

地図でよく確認すると分かると思うが、この4島のうち歯舞群島は、北海道の根室に一番近い。

それが未だにロシアから返還されていないということは、目と鼻の先にロシアの脅威があるということである。

ウクライナ問題は、日本も他人事ではないのである。

鳩山一郎は、1956年、日ソ共同宣言をフルシチョフの同意のもと実現させ、北方領土のうち歯舞群島と色丹島の2つはソ連が引き渡すことを、共同宣言の条文に盛り込むことに成功したのである。

実際の条文を抜粋すると、次のとおりである。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

以上である。

にもかかわらず、今日までこの約束が果たされていないのは、なぜだろうか。

それはやはり、日米安全保障条約があるからである。60年安保闘争は、日本国内の反発が顕在化したわけだが、ソ連も態度を変えざるを得なかったのである。

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