20世紀の歴史と文学(1905年)
日露戦争は、1年半の歳月を経て、1905年の8月まで続いた。
双方ともに、かなりの死傷者が出たが、最終的には、アメリカが仲立ちする形で、講和条約が結ばれた。
これが、ポーツマス条約といわれている。
戦争の結果としては、ロシア側は、バルチック艦隊が日本海海戦で敗れたのが痛かった。
このバルチック艦隊は、長い船旅で疲弊しているところを、東郷平八郎率いる日本側の軍隊に、対馬沖で攻撃されたのである。
なぜ長い船旅だったのか。
バルチック艦隊は、その名の通り、バルト海の軍港に駐在しており、そこからヨーロッパ北西部沿岸を回り、南アフリカまで南下し、インド洋から東シナ海経由で、日本までやってきたのである。
バルチック艦隊がアフリカ経由で遠回りしなければならなかった事情は、ロシアの北側の北極海が冬季は凍結して通行できないことを考えれば当然であるが、もう一つ理由があった。
それは、スペイン沿岸から地中海と紅海を通るスエズ運河ルートを使えなかったことである。
スエズ運河ルートを通れたら、もっと早く日本近海に到着できたし、隊員の疲労もそこまでひどくはなかったはずだが、実は、これこそ1902年の日英同盟の効果だったのである。
スエズ運河は、エジプトの運河庁が今は管理しているが、日露戦争当時はイギリスがエジプトに軍事介入を行っており、イギリス軍が駐在していた。
バルチック艦隊は、1904年10月にバルト海沿岸を出発して、やっとのことで日本近海に着いたのは1905年5月だった。
今の韓国の釜山と長崎の佐世保の中間に位置する対馬海峡を突破し、ウラジオストク港までなんとかたどり着ければ、そこから日本軍を追撃できたはずだった。
ところが、日本軍が張りめぐらせていた海底ケーブルによって、バルチック艦隊の船は事前に接近情報が無線で伝えられ、日本軍に待ち構えられる形になった。
当時から日本の技術力は高く、現代でも世界トップレベルの光海底ケーブル通信技術を日本は持っているのである。世界中でインターネットがつながるのは、日本の技術力によるところが大きい。
こうした技術力の高さに、欧米列強は次第に日本に対して脅威を感じ始め、江戸時代の開国当初は日本のレベルを低く見ていたのが、見直さざるを得なくなった。
さて、ポーツマス条約は、アメリカのニューハンプシャー州で締結されたが、日本側が期待していた賠償金は、1円たりとも払われなかった。
これは、ロシアの体面もあったのだが、アメリカは賠償金に代わるものとして、満州と樺太の南半分の領土を日本に割譲するようロシアを説得した。
こうして、日本は朝鮮半島すべてを支配下に置き、満州南部の鉄道敷設権も得た。
ところが、戦時中、軍費調達のために増税を強いられた国民は、賠償金ゼロの結果に失望し、当時の外相の小村寿太郎への非難をはじめ、政府高官の邸宅襲撃、日比谷焼き討ち事件が起こるなど、国内世論は荒れ狂ったのである。
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