スパルタ教育の是非
昔の考え方は通用しない時代になった今の時代においても、根性論が根強く残っているところはある。
最近は、スマホの録画録音機能も優れており、隠し撮り(録り)されたら、すぐにSNSに上げられる。
なんでもかんでもSNSに上げるのも、その人のモラルが問われることになるが、とにかく生きづらい世の中になったのはたしかだ。
昨日の話ではないが、「死ぬほど勉強しろ」というのは、人によってはさまざまな受け取り方をする。
「死ぬほど」という言葉は不謹慎だとか、それって言葉の暴力だよねとか、他に言いようがあるだろとか、批判はいくらでもできる。
でも、それは、本来は部外者が口にすることではなくて、マンツーマンでの信頼関係が構築できているならば、問題ないわけである。
例えば、どうしても自分を追い込むような環境を自分で作れず、誰かに指示されたり監督されたりする状況に身を置くことで、初めてそれが可能となる場合がある。
親が子どもに「宿題をしなさい」と言っても、子どもが言うことを聞かない場合、「宿題を終わらせないのなら、おやつはもらえない」と言ったとする。
おやつをあげないことは何ら問題ではない(と私は思う)。
しかし、それでも子どもが「別におやつなんていらない」と言ったとすれば、親は、「じゃあ、夜ご飯も食べるな」とさらに厳しい条件を突きつける。
これで子どもがしぶしぶ頑張るのであれば、そこはぎりぎりセーフなのかもしれないが、他人がそれを聞いて、「食べさせないのは虐待では?」と言ってくると、事情は変わってくる。
子どもが、夜ご飯を食べなくてもいいやという投げやりな気持ちで食べずに寝たとして、あるいは、どうしても宿題をせざるを得ない状況に追い込まれて泣き出したとして、私たちは、それをどこまで問題視すればよいのだろうか。
同じような状況が、学校の部活動の指導でも生まれる。
学校の先生が、生徒のことを我が子のように思って厳しく指導することに、今では違和感を抱く親が多いのも事実である。
昔なら「先生よくぞ言ってくれました。」と感謝されるのが、今では「うちの子に何をしてくれるんですか。」という非難になる。
ただ、学校も家庭も(さらには保育園も学童保育所も)、どこか履き違えているんじゃないの?という思いが、私たちの間でくすぶり続けていることは否めないのである。