古典100選(80)初学考鑑

今日は、同じく歌論書として江戸時代に書かれた『初学考鑑』(しょがくこうかん)を紹介しよう。

これを書いたのは、当時は公卿だった武者小路実陰(さねかげ)である。1661年に生まれ、1738年に亡くなっているので、ちょうど綱吉や吉宗の治世に活躍した人である。実は、大正期の小説家だった武者小路実篤の祖先である。

本居宣長は、武者小路実陰が亡くなったときは、まだ8才だった。つまり、昨日の『排蘆小船』は、武者小路実陰の『初学考鑑』より後に書かれたものである。

両者の書いた内容について、比べてみてほしい。

では、原文を読んでみよう。

①歌を詠むほど、心体ともに、優になるはなし。②「心広く、体(てい)胖(ゆたか)なり」とはこのことならん。
③あるいは、夏の涼しき端居(はしい)に心を澄まして秋冬の題を詠みなすにも、時にあらぬ紅葉、鹿を見聞き、雪の望(ぼう)をなし、心を千里(ちさと)の外(ほか)に遊ばしめ、冬の寒き夜は埋火(うずみび)に向かひて、春の花ののどかなるよりして、郭公(ほととぎす)の声を目の当たり聞く心地し、あるいは、見ず知らずの野山の景色もおのづから浮かび、松島、象潟(きさかた)、宮木野、その外、名山名所、目の当たり見ずとても、その絶景の心に浮かびて詠みならベ、旅の道の変はる変はるなる海山の眺めよりして、わびしき旅宿の趣を見るがごとく、山家・田家(でんか)の風流、その折々の景趣、座にありて硯に向かひながら見るに等しく浮かぶこと、この道の極(きわみ)なり。
④さるによりて、『古今』の序にも、「心を慰むるは歌なり」と書き記し侍りけん。
⑤まことに、人情を見抜きし詞なり。
⑥まづ始めに、詠み習はんとならば、たとへば、花・郭公・月・雪・祝(いわい)などの、五首ぐらゐの題を、それぞれに詠みなし、それより、あるいは七首・十首・二十首・三十首ほどの組題(くみだい)を詠みてのち、慣れし頃より、堀河院の御時の百首を詠み習ひ、幾度も幾度もくりかへし詠み習ふべきことなり。
⑦されども、学者の心によりて、おなじ題にては退屈の出で来るものなれば、さある時には、また外のやすらかなる組題、五十首にもせよ、百首にもせよ、詠み侍るべきなり。 
⑧もつとも、その詠みやうを言へば、たとへば「何の花」といふ題を詠まば、『類題』の「花」といふよりして「花を惜しむ」までの歌を、一首一首心静かに読み味はひて、その中に、わが心に面白きとおぼえしを心にもちて詠み侍るべし。
⑨初心のうちに、「詞は旧(ふる)きを以て、情(こころ)は新しくせん」と思はば、一向、歌は出で来べからず。
⑩まづ詠み習ひには、人の詠み置きし風情にもせよ、わが心より詠み出だしたるにもせよ、随分随分、歌数を詠み出だすべし。
⑪さあればとて、卒忽(そっそう)にて数多きは詮(せん)なし。
⑫右に言へる「花」といふよりして花の一部を読み終はるまでに、何首も出で来べし。
⑬また、残らず花の一部を読み侍るに、題ごとにかく心得もて行けば、その歌はおぼえずとも、歌の詞は腹中におのづから染みわたりて、本籍(ほんじゃく)なき折にも詞の出でやすきこと、つねづね歌数を見習ふ功なり。

以上である。

武者小路実陰も本居宣長も、歌を繰り返し詠めと言っている点は同じである。

武者小路実陰は、堀河天皇(=白河上皇の第二皇子で第73代天皇であり、1107年に29才で亡くなったが歌詠みは優秀だった)の治世に、「堀河院御時百首和歌」として奏覧された複数の歌人による和歌集を反復して詠み習えと言っている。

松島や宮城野(=宮木野とも表記)、秋田県の象潟などの名所に行って歌を詠み、とにかく先人の歌にたくさん触れて、自分でもたくさん歌を詠んでみよと言っている。

本来、「学ぶ」とはそういうものである。

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