失敗させて分からせろ
仕事を教える立場にある者は、とかくやってしまいがちだが、相手が失敗しないように、あらかじめ手取り足取り教え込み、自分の言う通りにしていたら間違いないからと言って、そのとおりに仕事をやらせる。
一見、丁寧に指導している良い人に見えるが、そのやり方では、教えられる者は何も学べない。
教えられる者の中には、その指導に抵抗感を持ち、言われたとおりにしない者もいる。
だが、それを見て、なんで言われたとおりにできないんだと怒るのは、あんまり感心しない。
おまえのために指導しているんだとか言うのは、今の時代においては、古い人間のやることである。
指導の意味を勘違いしている。
教える相手が失敗したら、なぜ失敗したのかを考えられるように働きかける、あるいは、同じ失敗を繰り返さないためには、今後どうすればよいかを考えさせる。
そういった働きかけや、考えることを促すことがなければ、それは指導したことにならない。
これは、仕事に限らず、子育てにおいても同様である。
親は、子どもをかわいく思うあまり、あるいは、子どもに失敗をさせたくないあまり、成功するための御膳立てをやりがちである。
そんなふうにして育った子どもは、失敗した経験がほとんどないまま大人になるが、失敗したときの対処方法や感情のコントロールなどまったく知らないも同然である。
もしかしたら考える力まで身についていない可能性がある。
そんな大人が、社会人になって、今、あなたの職場にいるかもしれない。
失敗を知られるのが恥ずかしいとなれば、とっさに自分のしたことを隠すかもしれない。
それが、あなたの職場にとって、対外的な信用失墜につながると、組織としての損失はものすごく大きなものになる。
だから、手取り足取り教えるんじゃないかと思うかもしれないが、それは本当の意味での人材育成になっていない。
失敗してもいいよと声をかけられるくらい、器が大きい指導者でありたいものである。
そして、失敗したときのためにどういった予備的対応をしておく必要があるかを考えて準備するのも、指導者の責務なのである。
ここまでならまだ許されるとか、根回しして周囲の理解を得ておけばギリギリなんとかなるとか、経験を積んでいる指導者には、そういった判断力が身についているはずなのだから、なぜそれを生かした指導をしないのか、私には不思議でたまらない。
お偉いさんの中にも、勘違いしている人がいる。
「私に恥をかかせる気か?」というのは、もはやパワハラ以外の何物でもない。
そのセリフを吐く前に、自分がまずは進捗状況を尋ねるなど、積極的にコミュニケーションを図っていたかどうか振り返らなければならない。
そういった努力や姿勢も見せないで、「報告がなかった」とか「事前に教えてくれなかった」と言ってしまうと、部下に対する信頼はガタ落ちである。
お偉いさんでなくても、人に教える立場に今あるならば、あなたの将来は、大丈夫だろうか。