【続編】歴史をたどるー小国の宿命(42)
1604年、秀忠が家康から将軍の座を譲られる1年前に、のちの3代将軍である家光がこの世に生まれた。
この家光が将軍の座に就く頃(=1623年)には、いわゆる「幕藩体制」が確立されて、禁中並公家諸法度や武家諸法度など、朝廷や全国各地の大名を統率するための諸制度が整備されていた。
今で言うなら、日本国憲法があって、その下に地方自治法や国家公務員法・地方公務員法があるようなものだろう。
家光が誕生したとき、家康は、家光の幼名として「竹千代」と名付けた。「竹千代」という名は、家康自身が子どものときに名付けられていたものであり、家康がかわいがっていたことが分かる。
ところが、家光の幼少期は、病弱である上に、吃音の障害があった。
家光の生まれた2年後には、「国松」という弟が誕生したのだが、この国松のほうを秀忠が寵愛していたため、家光の乳母が、駿府城にいる家康にこのことを相談に行ったという。
もしかしたら、秀忠が後継として「国松」を考えているかもしれず、乳母は、家康の耳に入れておいたほうがよいと判断したのだろう。
結果的に、病弱だった家光は47才まで生き延びたし、家康が亡くなっても、秀忠はちゃんと家光に譲位した。家光は、20才になってから死ぬまで将軍職を全うしたのである。
さて、徳川家の世継ぎは置いておいて、1609年、今の時代から見れば、衝撃的な出来事があった。
薩摩藩の初代藩主である島津家久が、今の沖縄県にあたる琉球王国に侵攻したのである。
島津氏にとってみれば、秀吉の朝鮮征服は実現せず、関ヶ原の戦いで家康が天下を取り、不自由な環境に身を置くことに嫌気が差したのだろうか。
ただ、これには、ちゃんとした口実があり、もともと琉球王国は、朝鮮出兵に協力するように秀吉から要請されていたという経緯がある。
琉球王国がその要請を断り、黙殺していたことから、島津氏はこのことを家康や秀忠に伝え、前もって侵攻の了承を得ていた。
琉球王国は島津氏の侵攻にあっけなく屈服した。そして、1610年、国王だった尚寧王(しょうねいおう)は、駿府城と江戸城に連行され、家康と秀忠に謁見したのである。
続きは、明日である。