la la la 101. 小さな歩幅でいい、ちょっとずつでいい、進んで行こう!(By も)
こんにちは。90〜100あたりまでは結構スピリ強めの宇宙的な単位の記事を書いてきたので、100を超えたこの辺りで地続きの日々のことを書こうと思います。経験や日々から培った感覚、なので By も。小さな歩幅でいい、ちょっとづつでいい、進んで行こう☆
(今日はだらだらっ、とした回なので暇な方どうぞ〜)
今日は【三の酉(さんのとり)】という酉の市(とりのいち)でした。わたしはあまり酉の市で熊手を買うという文化には馴染みがなかったのですが、去年初めて親友と酉の市に行って熊手を買うということを始めたので、今年は去年の熊手を奉納しつつ新しい熊手を買うという、一周回る感じのことやってみました。
今日TOP画像にしたのは吉田屋さんというところの熊手で、去年初めて熊手を買ったわたしと親友が選んだ屋号でした。というのも去年は初めてのことで気圧されてしまい声をかけられるとビクビクするので、笑、全然ぐいぐいこない感じのこの吉田屋さん、そして一人一人手描きで描いているという7福神の温かい感じに魅了され購入したのですが、今年は手に入れることができませんでした。
というのもこちらの熊手、ほぼすべて売約済! なんと吉田屋さん、毎年早ければ【1の酉(いちのとり)】の夜にはだいたい売れてしまうのだということで、去年わたしたちは【1の酉】に行ったから運良く買えたのだということを知りました。なるほど、どうりで誰もぐいぐい売ろうとしないわけです、笑、放っておいても売れてしまうのだもの。売り切れは残念でしたが、そうか、去年はお初だったけど、なかなかわたしたちってば熊手を見る目はあったんだねえ! と、自分たちをまず讃える。笑。
最近「中庸に生きる」ことをモットーにしているわたしなので、吉田屋さんで熊手を手にいれられなくてもあまり極端に落ち込むこともなく、かといってそれ以上のものを探すぞ! といきまくこともなく「じゃあまあ」という感じで、吉田屋さんの真後ろのお店に並んでいるものから選んでみることにする。そして今日話題にしたいのはその「中庸さ」なのですが、
きっと中庸で居られるって「焦り」や「恐れ」や「不安」とはある程度の距離を置いて付き合えるようになっているってことなんだなあ、とわたしは感慨深く思ったのです。
【中庸】(ちゅうよう)
極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。[ by wikipedia ]
(※ 仏教や儒教にについて語っているのではないです!)
(⤴︎この3枚は去年の写真。去年は夜でした。)
今日、ものすごい人ごみの中を親友と歩いていたら親友が「なんか去年の酉の市って何かにものすごく必死だったな。何に向かってあんなに必死だったんだろう」と言いました。そうだなあと思いました。わたしの場合は必死、というのとは少し違うけど「気合い!」というのはめちゃめちゃ入れて臨んでいたなあと思いました。何かこう「来年何かを成し遂げなくては!!!」「来年の今日にはもっとどデカイ熊手を買えるようにならなければ!!!」そんな気迫というか自分への追い込みというか、でしょうか。
なんかでも、
「1年てあっという間だね」
「ほんとそうだね」
わたしたちはある意味「中庸に」そう言いあいました。
わたしたちが言い合ったこの言葉には相反するようで同じこととも言える意味合いがたぶん含まれていて、それはこういった感じ。
1年て、自分が思っていた風には全然人生変わらないね。でも、1年て自分が予測しないことが立て続けに起きて、人生が完全に変わるね。
そういう感じ。
つまり1年前にじぶんが予定していた人生の様変わりって「本を書き上げる」とか「本を出す」とか「それが売れて」「倍くらい稼ぐ」とか、
何か人生に大きな転機をもたらしてやろう、みたいな感じの変化。
でもそれって全く1年経っても変化してなくて、本書き上がってないし、本出してないし、倍稼ぐどころかむしろ・・・って感じなんだけど、
でもこの1年って、
・突然引っ越しをすることになった!
・ラララ世界とかいう世界を持った!!
・入院した!!!
・絶縁していた人と仲直りできた!!!!
っていう、全く!予想もしないしていない、そして確実にわたしの今後の人生設計を変えていく節目の年になったわけなんです。
(それは親友もそうでした。わたしと親友は数ヶ月ほど一緒に住んでいたし一緒にやっているプロジェクトもあるので互いの身にに起きることが互いに影響しあう関係でもある)
とくにここはちょっと”スピリ”なのですが、親友が、吉本ばななの「アムリタ」みたいな話だねっていうのだけど、わたしの中に本当に長く棲んでいた「何か」が入院を機に(正確には5月の新月の日から始まっている)
わたしの中から出て行って、わたしの中には新しい「何か」が入った。これは「シュメールの突先(有料マガジン)」の方では”ハララ妃”という姫だとしているのだけど、地続きの言い方をしたら、もしかしたら新しいのが入ったのではなくって「何か」が出て行ったことで、本来の性分が前に出てきたのかもしれないのだけれど、とにかくそれはとてもとても「中庸な性格」なのでありました。笑。
そしてこの「何か」が出て行った、というのがあまりに顕著で、わたし自身が感じて誰かに言うのではなく、アルバイトしている夜のお店で接するお客様に、特に男性から口々に言われるのでーー当然その人たちはスピリではなく”なんか別人になったみたいだね”とか”落ち着いて雰囲気かわっった感じ?”とかそういう風に言うーーきっと本当に何かが出て行った、もしくは無くなった感じなんだなあと思っています。だとしたらこれって大事件で、この1年って水面上では何も変わらなかったけど、水面下では大革命が起きた1年になるわけで、その大革命ってきっとジワジワ、今後水面上に影響してくるんだろうなって、思うのです。
つまりこういったことを考えて行くと、こう辿り着くわけなのです。
一体何をもって前進とし、何をもって後退とするのか。
どうなったら目標に近づいていることで、どうなったら遠のいていることになるのか。
わたしはこう考えたわけなのです。もっとも大切なのは測ることではなくて、「不安」や「焦り」や「恐れ」から解放されることなのではないか、と。
それで今日のタイトルになるわけなのだけど、小さな歩幅でいい、ちょっとづつでいい、って思えない場合、その理由ってどこからきてるかって、全部焦りと恐れと不安からきてるんじゃないかなって、思ったからなんです。
不安だから一気に駒を進めたい、今年ババーンて何かを決めたい。
小さな歩幅でいいって思える人を、それは時間があるからじゃない? って思う人もいると思うのですが、実は死をほんとうに意識すると、びっくりするほど脳内が断捨離されて、本当に大切なものが1つか2つになる。
残された時間でそれを丁寧にやって行こうと思うし、それだけしかやらないと仮定するとやっぱり小さな歩幅でも進んでいくんです。そういう感覚体験を入院中にして、あれ? 残り時間が少ないのかなと思うと逆にハッキリするのに、残り時間がまだたくさんある前提の時になんで「時間がない気持ち」になっちゃうんだろうと思ったら、なんか得体のしれない不安だったと思うんですよね。なんか例えばわたしは30代後半なのですが、勝手に「40歳になるまでにはひとかどの人間に」とか(なんだよ、ひとかどの人間って 笑)「それなりの収入を」とか、本当に死を意識した時にはマジでどうでもよくなるような些細なことに、逆にすごく囚われている。
来年別にさらに大きな熊手が買えなくたって死にはしないのに、何かが遠のいたような気がして焦ってしまう。そんなようなこと。
そういったものが、なんだか今年全部削ぎ落とされて、本当にもう、
すっごくすっごく小さな熊手でいいような気分になったわけなんです。笑。
(それでもうこれでいいじゃないとかって去年より全然安いやつを買おうとして親友にさすがに、ゲン担ぎだから去年より値段を下げるのだけはやめたら? と言われて思いとどまる)
結果的にはそのすっごく安い熊手の奥に、去年と同じ値段のものでとてもとても惹かれるものを見つけたのでそれにしました。
そしてなんだか今日タイトルにしたようなことを思ったわけなんです。
意味合い的には大きな振れ幅でやるんじゃなくって中庸に行こう! ってことなのですが、それはすなわち小さな歩幅で少しづつ進んでいくことでもあるから。同時にわたしが「これこそが大事だな」って思ったことがあるのだけど、それは[la la la 90]の「丁寧に生きる」と意味合いはとても似ていて、
小さな歩幅で少しづつって「程々でいい」「大きく咲かなくていい」って意味じゃないんです。
それは、もしわたしがこの「ラララ世界」でひと旗あげてやろうと意気込んでこれを始めていたらきっとこんなさらりと100回まで来れなかっただろうということなんです。
そこには「頑張るぞ!」とか「やったるで!」「毎日更新!!」とかっていうプラスの意気込みの反対側に「もう頑張れない」とか「今日更新できなかった(自己嫌悪)」とか「しんどい」とかマイナスのテンションも同じボリュームで存在するわけで、
それって引いては「書きたくないのに書かなきゃ」とかになって「書きたくない」になってしまう恐れもある。
わたしは最初3ヶ月ほどかな? は軌道を掴むために毎日更新していましたが、自分の中でラララ世界が自分の生活の中に組み込まれたな、書く軌道はできたぞ、ってところから、今度は無理をしないようにしていきました。
この「書けそうだったら書く」というのがとても良かったように思います。
作家名の方でもnoteを更新しているので、その兼ね合いも「無理をしない」「頑張らない」をモットーに続けてきました。そうすると逆にするする書けたりする。面白いものだなあと思います。
「頑張るぞ」という気持ち、大きく一歩を出そうとする意気込みが、自然なエネルギーをせき止めてしまうことがある。
それを今とても感じています。
なので小さな歩幅で少しずつ、というのはいわゆる「攻めてない」んじゃなくて、3次元的な言い方になりますが「究極の攻め」なんです。
そこがわたしがイメージしている中でこれはウサギとカメの話じゃない、って言いたいところで、これはコツコツやっている人が怠けたり奢っている人に勝ることがあるよって話ではなくって、物事の「結実ポイント」の話なんです。どこで大きく咲くかわからんぞよ、という話なんです。
例えばわかりやすい例えで言うと、ただ日々更新している「古の魔女」だけど気がつけばもう多分本1冊分くらいのボリュームはある。現実的に考えたらフォロワー20人のマガジンが本になることはないけれど、笑、もし本になったりしたらなんか急に華やかに「形」になるわけですよね、大きな熊手を買える!みたいなわかりやすく具体的なことになるわけなんです。
そして”小さな歩幅” の面白さは、これを逆算して目標に掲げてるわけじゃないところにあるんです。逆算して目標に掲げたらまた逆のバイアスがかかるからなんです、スキ❤︎ がつかない、とかフォロワーが伸びない、とかに一喜一憂してしまうとか。
(⤴︎ポスターの女性が持ってる熊手が小さすぎて笑える)
そこで最初に戻るのですが、そうやって右往左往して生きてみても、
1年て、ある意味自分が思っていた風には全然人生変わらない。
そして、1年て自分が予測しないことだらけで完全に人生が変わる。
もうこれに尽きると思うのです。
だからこそ人生という大きな運命のうねりの中では「今」と「目の前」、
そしてその連続しかないんですよね。
だから先立つ未来への不安とか恐れとかってもうある意味無意味だから手放して、笑、自分が”今”安心できる、無理のない歩幅で、ポチポチ少しづつ、歩いて行きませんか? という話。
ブレない歩幅で、今と目の前を、歩いていく。
それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆