モカ財天_190517_0002

VOL.24/粘着な霊障には鍼が効くのだ。

こんにちは。粘着な霊障には鍼が効くのだ。
これ、体感するまで知りませんでした。というか、鍼を受け霊障を解毒し、
そのために鍼[はり]に行ったんだわ! と気づくまで、それを知りませんでした。

もう、いろんなことが2015年よりはっきりと、特に肺炎で退院してからよりくっきりとわかるようになってしまったので、もう少しずつ「わたしの確信」としていろんなことを断言していきますね。もちろん「わたしが」そうだと思っていることで世界の正解かどうかはわからないけれど。

霊障というものがあって、これは霊道のある家とか、湿度が高く気の巡りが所に住んでいたり働いていたりすると、そういったもののが要は体に「障って」具合が悪くなるということがあります。でも見えない「霊」より、行きている人の霊、つまり生き霊が一番怖いです。なぜなら肉体を持つ人から放たれる念だからより強いし濃いんです。

あと最近わかってきたのですが、酔っ払ったり、何かの瞬間にパッと態度や顔つきが変わったりいつも言わないことをいう、これ「リアル」でいうとそこが本性ということになりますが、場合によって「部分憑依」のことがあります。つまり何かにその瞬間支配されている。
これは憑依と言えばスピリチュアルぽいけど、感情の時もありますよね。「怒りに支配」「悲しみに支配」「情愛に支配」されておかしくなる。
感情に支配されておかしくなるレベルの時ってその感情が過去のトラウマや傷とリンクしていることが多いと思います。そして同時に波動が低い霊的なモノは、人のネガティヴな部分や悲しみとか弱っている、ところに憑きやすいので現象としてはどちらもあまり変わらないような気がします。

そして人の中にはもう部分憑依でなくて、その憑依されている側が憑依している方と一体になってて24時間365日、憑依している存在の性質がその人のパーソナリティとなって生きている人がいます。その場合ほとんどのネガティヴ行為ーー猜疑や策士、威圧や拒絶や怒りや搾取や復讐などーーを本人はほぼ無意識に行なっていることがある。
わたしは長く自分に人魚がいたとこのラララでもよく言っていたし、香港の文武廟で”何か”が入ってその人が強く動いていたこともあるのですが、つまりわたしには自覚があります。自分のパーソナリティとは違う何かが入っていること。違う、でもリンクする何かを持っている存在。人魚であれば悲恋の物語のヒロインであるから、わたしも恋愛に対して「どうせ叶わない」という思い込みを持って基本的に自暴自棄的な恋愛の仕方で生きてしまったり。でもこれは自覚があるとアプリみたいなものでその部分だけで起動するのですが、自覚がないとハードディスクそのものが乗っ取られてしまいます。つまり恐ろしいんだけど完全に腹話術の世界。

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今取り憑かれた人の話をしていましたが、そんなわけでただの人ではなく"憑かれた"人の念[生き霊]はとても強く、なんども飛ばせるので粘着です。(単純にバディ組んでて2倍だしね 笑)だからそのバディに目をつけられたら大変! "邪"とか"魔"とかは目を離した隙に、または目の届かない所に、つまり人の背中の首の付け根のチャクラの所や、背中の方から「スッ」と入ってきます。(怖! 書いてて怖い!)イスラムの女性は胸や肩より"首"の露出を固く禁じられておりいつも首に何かを巻いていますが、これは「生き霊論」から行くととても素晴らしい防御策です。

わたしはこういったスピリチュアルなマガジンを書いていても、極めてリアルに地続きの日々を生活していくことを一番大事にしています。じゃないと肉体を持って生きている意味がないからです。なので基本的には形なきことに対しても形で対応していきます。掃除、空気の入れ替え、前向きな言葉。つまり「光に向かって生きる」ということ。
今週はかなり大きな事件ーー本当にあと少しで刑事沙汰になるような事件ーーのすぐそばにいたのですが、わたしはそういうときに最初に祈ったり、何かに思いを馳せたり、そういう空気を食べるような解決策をとりません。もしかしてわたし弁護士になれるんじゃないかというくらい現実的な対応をします。それでもうこれ以上の準備や対策はできないということをして、その上で初めて、腕にヒーリングコードを書いたり、玄関の塩を変えたり、魔除け的なものを持って出かけたり、します。

今だってまだ「想念」だけで移動したり、想念だけで花を咲かせたり、できないでしょう? つまりは「現実」がまだまだこの世界の優先順位だということ。想念だけにとらわれていたら現実で起こっていることへの解釈がねじ曲がってきます。これは想念の世界の中でだけ生きていることになり怖いこと。想念と妄想との垣根も曖昧です。

けれども「形なきものはれっきとして存在する」これもまた真実です。
とにかく昨日わたしが「鍼」に行ったのは物理的な理由でした。
肺炎の病後で息がしにくく変な筋肉の使い方をして背中が固まるので、近所の整体にかなり通っているが、今日はいっそ! 筋肉に直接「針をさして」もらおう。そう思って人生で2度目の鍼に行ったのです。先生は鍼を12箇所かな?首や背中にさして「じゃあしばらく、そうですね15ふんくらい、できればゆったりと過ごしてね」
と出ていきました。

ところがその15分、最初はゆっくり過ごすどころか地獄みたいな感じ。
まずわたしは閉所恐怖症なんだけど急にこう、U字のクッションみたいなのに顔をカポって載せてうつ伏せで寝てることが怖くなり、息がうまくできないみたいな状態で少しパニック、そのあと悪夢を見ている時のようにうなされる感じがあって、わたしが今抱えているPTSD[と先日は呼んだ]その傷、
正確にはある人からのハラスメントだったんだけど、それが最近はまとまって過去の記憶というよりは一匹の大きな顎の強い”ムカデ”のイメージ(しかもS字に湾曲して反り返っている)で、見た目は似ているけどサソリは大丈夫なのにムカデに関しては画像も見られないくらい”ゾゾゾゾゾ!”みたいになっていたのですが、そういう映像ー直視できなくて怖い映像などが次々浮かんできてすごく怖い時間が続きました。(15分まだかな、早く終わって欲しい・・・)わたしはそう思っていたのですが、ちょうど15分くらいなのかなあー長く感じたけど10ぷんくらいなのかもーが過ぎてから、こう、霧がふわぁぁぁと晴れるように、もしくはそのネガティヴなイメージに白いレイヤーがかかるように、とにかく怖いものは薄れていって、息がすごくしやすくなってきた。それでわたしは悟ったのです。なるほど、鍼は体内に巣食っている生き霊を追い出すことができるのだ。


「魔」や「邪」は要は毛穴のイメージでチャクラという穴からスッと中に入っている。祓詞や塩やお風呂なんかは、それらが体内に入らないようにする事前対策だけど、入りこんで少しづつ浸食しているものには、風邪を引いてからうがいをしてても効かないから今度は栄養のあるものを食べたりして治すのと同じで、霊障も体内に入り込んだら次は物理的に体のチャクラの中に働きかけなければダメだったんだ。(塩風呂とかじゃ落ちないのね 笑)

でもわたしの五感もしくは六感は正しかったのだ。
絶対に鍼に行こう鍼に。それを強く思っていたのだから。
退治の手前まで来ていたのだすでに。

いたく感心したわたしは帰宅後「鍼と霊障」について調べてみた。
これは昨日の先生は面白くて、わたしと考えが少し似ていた。
「鍼は鍼でしかないのに、まるで病気を治したり、すごいことができるみたいに言ってしまうのは違うよね」
先生は鍼を打ちながらも別に鍼を神の道具のように思っているわけじゃない、鍼は鍼、という感じの方で、その平たい感じ[フラットさ]もわたしは好きになった。

ということで、ネットを見ると確かに「霊障を治します!」とかあるんだけどそういう鍼はすごい値段取っていたりして、でもねほんの4000円くらいで霊障をとる鍼というのをやっているところもあったからこちらは信憑性が高いなあと思って、やっぱり無関係ではなさそうだ、と思った。

生き霊がここまで入ってくるというのは、相手との関係性に起因してて、もともと最初の関係性は悪くなかったりしてお世話になったり感謝があってその人に心を開いていた場合、なんかネガティヴなものをたくさんもらうようになったなと思っても相手を嫌いになれなかったり、わたしに落ち度があるのかなと考えたりもして「省みる」性格が逆にこのようなことを引き起こすこともあるのだとしみじみ考えた。
だからやっぱりそれらを強く「断ち切る」気持ちが必要なのだと思いました。昨日の朝、友人からこの絵が送られてきたとき
「この”目👁”の多さは何を意味しているんだろう!?」って思っていたんだけど、要は毛穴中を「目」にするくらいの勢いで邪気を弾けというサインだったのだなと、今は考えています。

粘着な霊障(生き霊)には鍼が効きます。同時に鍼そのものよりも、
鍼を打ってくれる人とじぶんのグルーヴ(気の循環)が何より大切です、
そのことも忘れないで。

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それではららら。
ラララ世界で会いましょう☆


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