エリートは何をしても許されるのか?
はじめにお断りしておくが、今回の記事は朝日新聞様の記事を読んで考えたことを書かせていただく。
また、この事件において容疑者がしたことは決して許されない行為であり、彼の行動を正当化する意図はない。
数日前に朝日新聞様が以下の記事を公開した。
このリンクへ飛んでも、記事を読めない方がいらっしゃる方もいることが想定されるため、かいつまんで説明する。
数年前に起きた、演説中の岸田前首相に危険物を投げ込んで逮捕された男性に対し、取り調べを担当した検事が「暴言」を浴びせた……
という記事である。
繰り返しになるが、そもそも演説中の首相に爆発物を投げるという行為は許されることではない。
特に民主主義が極めて尊重されている日本という国において、自分の持つ意見と相反するという理由で、暴力でその意見に対峙するということはあってはならない。
こんなことをしなければ逮捕なんてされず、担当検事に暴言を浴びせられることもなかったといわれれば、それはその通りなのだが、
それでは話が進まないため、ここではいったん置いておく。
この朝日新聞の記事によれば、担当検事は容疑者に対し
「低学年程度の知識」「(あなたは)捕まっても替えがきく」
「引きこもって社会に貢献できないのに、外に出てさらにマイナスになる」
などの言葉を浴びせたというのだ。
この取り調べは録音されていたため、
少なくともこのようなことを言ったという事実には変わりないだろう。
担当検事にとっては、それは事実なのかもしれない。
あるいは、自分の向き合っている容疑者の男が、黙秘を貫いていることに
多少イラついていたのかもしれない。
私がこの記事を読んで思い出したのは「スタンフォード監獄実験」だ。
概要は上記の引用文(ウィキペディア)や英語にはなってしまうが、外部サイトを参照していただきたい。
なお、現在ではこの実験そのものに疑惑が生じているが、この点については今回は言及しない。
何がいいたいのかといえば、「検事」という「役割」に慣れ過ぎてしまったのかもしれない……ということだ。
あくまでこれは個人的な考えだが、
「検事」という職業そのものは立派で権威ある職業であると考える。
弁護士資格を取得したうえで、検事になるための採用試験を突破し、
何年も検事補などを経験して検事になれるわけである。
当然頭脳明晰でなければなれないだろうし、想像できないくらいの努力をなさったのだろう。
そんな方からすれば
罪を犯すニンゲンのことの考えることなど想像できないのかもしれない。
他意はないことを先に申し上げておくが、
検事という職に就けるまで勉強「できる」ということは、
恐らくそれなりに恵まれた環境に育ったのだろう。
そんな方からすれば、貧困家庭や家族崩壊家庭に生まれ育ち、
日々無力感にさいなまれて生きていくことについて、
思いを馳せることすらできないのかもしれない。
残酷な話であるとは思うが、「親ガチャ」というのは確実に存在している。
そしてその差を覆うというのは、並大抵の努力ではどうにもならない……
あるいは、努力だけではどうにもならないことがほとんどだろう。
選挙のたびに話題になる「2世政治家」もそうだが、
親からの資産や地位を引き継ぎ「再生産」されるというのが
日本社会の現実であり、
「身分が固定されている」と揶揄される所以なのかもしれない。
確かに、私の知り合いには会社の経営者がいるが、
その両親はやはり会社の経営者だ。
起業の際の資金や顧問弁護士の選定などは、両親にずいぶん助けられたと聞いている。
学生時代を思い返してみても、
両親が裕福なご家庭の子はそれまでアルバイトなどをせず、
趣味の習い事を続けながら、大学にはエスカレーターで入学してくる……
という同級生も何人もいた。
親が裕福で、自分はそんな生活……
「家族」という形が崩壊した家庭(ともよべるか怪しい)で毎日を過ごした人の気持ち。
貧困に苦しみ、勉強にも集中できずに低賃金で働き続けた人々の気持ち。
そういったものはわからないのだろう。
だからこそ、相手の立場や感情に無理解であり、見下しているからこそ、
あのような「暴言」につながったのかもしれない。
もっとも、首相に対して危険物を投げるという人間や行為は理解できないかもしれない。
というか、私だって理解できない。
そこに対して「無理にでも理解すべきだ」などど言いたいわけではなく、
「理解できないからといって、どんなヒドいことをしてもよいのか?」
ということを言いたいのである。
そもそも、検事は容疑者を取り調べたうえで、裁判を経て、
裁判で罪が立証され、有罪となれば罪を償うこととなる。
が、逆に言えばそれまでは原則は「推定無罪」なのだから、
「犯罪者」としては扱ってはいけない。
また法律に関わることを仕事にしている方々は、
法律や人を尊重したうえで、定められた法律や言論を用いて
対峙していく……というのが原則であり、
それが「司法」というものだと私は感じる。
どんな立場であれ、相手へのリスペクトを欠かすべきではないだろう。
法の下に人間は平等であるという考え方を、決して忘れてはいけない。