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怒りは、相手を選んで顔を出す
実家に住んでいた頃、私は毎日毎日叱られていた。
しかし、ある時ふと気づいた。
母の妹に接する態度は、私へのそれとは明らかに違う。
簡単に言うと、”気遣い”がある。
私には、怒りに任せて感情的にギャンギャン叱るのに、妹に対しては、
「下手くそ!」とか「ダメ」とは言わず、「こうするともっといいかな」
というような、”人間に対する気遣い”がある。
母の妹への接し方が、”相手を人間として尊重している”ともいえるし、
見方によっては”嫌われないように顔色を見ている”とも取れる。
母と妹の関係を見ていると、”人間同士”に見える。
一方で母と私の関係は”神と汚物”に感じられる。
***
大人になってから、”親子関係の辛かった話”をすると、
「(子供にとって親は全能の神のように見えるけれど)、
親も人間なんだ。
感情もあれば失敗もする、”ひとりの未熟な人間”だということを
わかってあげなくちゃいけない。」
みたいなことを言われることがある。
…でもさ、当の”親本人”が子供(=私)に対して”神”として振る舞っているのだから仕方ない。「お前の”殺生与奪の権”は、私が握っているんだぞ」というのをバンッと前面に押し出してくるのだから。
さて、そんなわけで、母が私を叱るときはとにかく容赦がない。
罵詈雑言と人格否定のオンパレード。
それを、いつも剥き出しの感情に乗せてぶつけてくる。
一度私が自宅のトイレットペーパーを使い切ってそのままにしてしまった時などは、殺人……いや、無差別連続殺人でも犯したかのように苛烈に叱られた。
しかし、祖父や父が同じことをしても、母は黙ってペーパーを補充している。
…なぜ知っているかというと、彼らはおそらく一度も使い切ったペーパーを補充したことがないからだ。彼らの後にトイレに入ると、しばしば紙が切れている。私も、何度も、当たり前のように補充を行なっていた。
***
父はしばしば私に説教をする。
今日、会社でどれだけ嫌なことがあったか。
どれほどの理不尽に遭ったか。
どんなに悔しかったか。
…それでも黙って頭を下げたのだと。
「お前のため、お前のため、お前を食わせるためだ。
…我が子に飯を食わせるためと思って、下げたくもない頭を下げたのだ!」
最後は怒鳴り声になっている。
まるで、その”会社であった嫌なこと”の元凶が私であるように。
そして、母は、驚くべきことに、父の悪口を一切言わない。
家事なんか一切やらないどころか、
恫喝されても、意識が飛ぶまで殴られても。
「あの人は、ああいう人だから。仕方がない。」
…だそうである。
しかし、私が”家事・育児に積極的でなかった”ことに関して、
母は私を恨んで、恨んで、恨んで、恨みまくっている。
方々に「長女が何もやらない」「長女が酷い」「長女が言うことを聞かない」
と愚痴を言っているらしい。
大人になって謝罪したけれど、
「許すことはできない。これからの人生で誠意を見せて。
あんたを許すかどうかは、ママがお墓に入るその時に決める。」
…という答えが返ってきた。
***
家庭を持った今、私は夫が使い切ったトイレットペーパーを補充している。
一度指摘したら嫌な顔をされてから、二度と指摘しなくなった。
黙って私が補充している。
…これが自分の子供だったら、コテンパンにしてやるのに!
と、脳内で虐待を始める。
嗚呼。怒りは、出せる相手にしか出てこないんだ。
母は、私をどんなに雑に扱っても、どんなに罵詈雑言を浴びせても、
私がついてくると思っている。泣きながら謝ってくると思っている。
事実、そうしてきた。
だから、感情のままに、剥き出しの怒りをぶつけてくるのだ。
***
母は、認知症の疑いのあった祖母が、「孫(=私)にお金を盗られた」と言ったとき、疑いもせずに私を怒鳴りつけた。
母は、祖母に「負の感情」を向けてしまうことを無意識に避けたのだと思う。何度弁解しようとしても、「ママはおかあさん(=祖母)を信じる」の一点張りだった。
***
妹や弟からは、「ママとお姉ちゃんで話が食い違ったときは、ママを信じる」と言われた。
長年、母は私の悪口を彼らに言い、それに気づいた私が事実関係を説明しようとした後のことだった。二人とも苦渋の表情で、そう言った。
親を否定することは、脳内で何かブレーキがかかるらしい。
***
そんな私も、ついに夫に怒りをぶちまけてしまった。
家事がらみではない。
インスタグラムで「スレンダーな女性」を見ていたからだ。
私は、親から「デブ、ブス」と散々言われてきた。
「デブは努力不足なんだから言われても仕方ない」と言われると言い返せなかった。1ヶ月かけて体重を落としても、実家に帰ると大量に食べさせられるので軽く1~2kg太るの繰り返しでうんざりしていた(食べろ、食べろ、の圧力がすごい)。
今は「デブ」ではないが「ぽっちゃり」ではある。
実家に帰ると挨拶代わりに腹の肉をつままれる。
それが嫌だった。
しかし、その嫌な気持ちを脳は封じ込めてニコニコしていた。
「ふくよかでいいよ」と言ってくれた夫。
それなのに…!
それなのに…!
「…やっぱり細身の子がいいんだ!」
と、なぜか怒りが爆発してしまった。
自分でもよくわからなかった。
デブ、ブス。
デブは悪いこと。
醜い。
コンプレックスが爆発してしまった。
本当は、親に対して爆発させるべきだった怒り。
「デブ、ブス、」とからかわれること。
やめてほしいと懇願しても食べさせられること。
大量に食べ物を送りつけてくること。
親の前では、ニコニコしていないと、ヒスられる。
恐怖が、怒りを抑え込んでいた。
私の怒りが噴出したのは、ただの「甘え」である。
「こんなに、こんなに、嫌だったの。わかって!」
という、「甘え」である。
でも、怒りをぶつけるべき本人には出せない卑怯者である。
(夫からは、「次やったら離婚」てことで今回は許してもらった)
***
ただ、考えてみると、私の家族はみんな怒りを適切に出せていなかった。
母は、自身の両親に対する苛立ちや怒りを出さない。
「お年寄りのしたことだから…」
で全て済ませてしまう。
父や祖父は、おそらく会社で感情を出せていない。
そして、その鬱屈した思いを「下の存在」の家族に吐き出している。
私は、両親・祖父母から”怒られる”度に、
しばしば不思議な気持ちになっていた。
「それは、私に対する怒りなのか?」
と。
……漢字を間違えた、
……家事に不備があった、
……表情が不満そうだったetc.etc…
そういうことで年がら年中怒られているのだが、怒りの内容を聞いていると、「昔だったら、(ミスがあったら)殴られたもんだ」「義理のお母さんは(家事に不備があったら)こんなことでは許してくれなかった!」などなど。ほぼ過去のエピソード語りになっている。
自身がやり込められて悔しかった話、一生懸命やって「不備だ」と殴られてた怒り…その時に出せなかった感情が噴出しているようなのである。
…それは、私自身にも当てはまる。
「デブ、ブス」
挨拶が代わりのそのからかいを、「やめて」と言っても軽く流されるだけである。強く言えば、「雰囲気を悪くした」として怒られる。
我慢するしかなかった。
…だから、「ぽっちゃり」の私を受け入れてくれるはずの夫が、スレンダー美女を見ていた時、自分が全否定された気持ちになってしまったのだ。
感情がコントロールできなかった。
普段から、無自覚の我慢が常習化してしまうと、怒りを抑え込む「圧力」が何かの拍子に弱まった時、それが噴出してしまう。
それは、私の場合は、夫の対する「甘え」であり、母の場合は、子供への「見下し(雑に扱っても離れていかないだろう)」などだ。
***
相手に異常なボルテージの怒りを感じた時は、
「それは本当に、その相手に対する怒りなのか」
自分に問いかけねばならない。