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自利利他〜自分を知ってこそできる利他〜【三】

己の歪みは、自身に目を凝らさないと見えない

自分の感覚を凝視すること

空海さんの標榜ひょうぼうする
「自利利他」は、

他者と自分とはつながりの中で成り立っている。
修行で自己を深めることと他者の救済は一つである

という考え方をしています。

私が受け取った意味には、2つの面があります。

一つは、自分への誠実さが誰かのためにもなるという感覚。
これは明徳めいとくにもつながってくるし、
パズルピースであらわす一燈照隅にもつながると思います。

快不快や好き嫌い、得手不得手を手掛かりに
自分を突き詰めて、自分にしかできないことを見つけ出し
そこを請け負えば、人のためになる。

自分をとことん大事にして見つけ出した仕事は、
誰かのためにもなる。

身勝手だとかなんだとか
動物的な同調圧力に負けず
自分を通した先に見えて来るものがある。

そう言う自己探究が、
巡り巡って他者を助けることになる
という解釈。

もう一つは、
自分をしっかり把握してこそ
他者との境界線が引ける、という感覚。

空海さんから最澄さんへ送られた手紙を読んだ時、
「この諫言かんげんは、私自身が
ここしばらくの経験によって受け取ったものだ」と思いました。

浮き彫りになった私の歪み

今回浮かび上がった私の歪みは、
自己否定から出発して
先の見えない長距離走を走っているうちに身についた
「善悪」の価値観でした。

自分はまだまだ至らないけれど、
少なくとも、マシになるよう努力している

そう言う理屈で生きているうち、
無自覚のうちに
他者をジャッジするようになっていたんです。

自覚するのには、衝撃と時間を要しました。

私自身が、
「これじゃだめ」と言う烙印から逃れたくて
いろいろな言葉を頭に詰め込んでいたので

人を見下したり、
嘲笑ったりすることはしていない、
ちゃんと戒められている
つもりだったんです。

でも、逆に
「人を軽率に責めたり貶したりしている人」を見た時、
私もその人に対して
「だめ人間」の烙印を押していたんです。

「人をとやかく言って、
自分のことを疎かにしている」
ように見える人を目の前にした時、
私は心の奥底で、

良いご身分だな

と思っていました。

これは、
幼い私が、私自身にかけてきた言葉だったんです。

「敵」に怒りを抱いたとき、
そう言って自分を押さえつけてきました。

そして、
どうすれば自分に「OK」を出せるのかを設定したんです。
・「誰かのために動いている状態」でいるとき
・「役に立つ役割を請け負って、ちゃんと機能しているとき」
・「不愉快な人を眼中に入れず、自分の課題に集中している時」
それが、私の「Only If I'm OK」だったんです。

それ以外には×をつけて、
自分を責める材料にしていました。

だから、
「おてつたび」でさまざまな人にお世話になって
真っ先に感じたことは
悔しさと自責の念と不安感だったし、

これまでの職場で、特定の他者に対して
「周りへの不平不満を言うばかりで仕事をしようとしない」
と言う印象を深めると、その人への嫌悪感で
アレルギーのような反応を起こすようになっていた。

「私は人を馬鹿にしない」という自己イメージを維持して
人を責めずに生きていられたのは、
そこまで人を見ようとしていなかったから。

誰かが「私の設定した最低ライン」を踏むような場面を見た時、
私はその人のことを徹底的に嫌い抜いてきていた。

私は、私の仕方で、
私が自分に課した「善悪」の価値観によって、
他者を判断していた。



→他者を自分の鏡にしていないか


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