「流記屋」は何をする人か
私は何を伝えたいのか
これまであまり、人にわかってもらおうと
してきませんでした。
「わからないから、わかりやすく教えてよ」
と言われると、
「わからんでいい」
と腹を立てていたと思います。
気難し屋ですね。
おそらく「わかる」ということに、
抵抗感があるんだと思います。
時折『よくわかる〇〇』というような
本を読むことがあるのですが、
数年前、とある古典的な文学作品について、子供向けに
書かれたものを読む機会がありました。
当時、古典文学の深淵さを面白く伝えてくれる本を
すでにいくつか知っていて、
自分なりにもその作品を愉しんでいたので、
現代的な感覚を持ち込んだ子供向けの解説書を読んで
「わかりやすくするために、
本当のことを捻じ曲げて伝えているんじゃないか」
と、強い違和感を覚えたのを今でも記憶しています。
たぶん、
「わかりやすく」ということに抵抗を感じる理由は、
ここからきているんだと思います。
「わからないから、
”わかっていない”感性のままで納得できるように
”わかっていない人の世界観”に合わせて歪めたものを
事実だと認めてよ」
と言われている気がするんです。
むちゃくちゃ窮屈です。
そしてちょっと不愉快です。
相手に合わせて歪められるほど安い生き方してねぇわ
って思います。
…ではなぜ、わかってほしいとも思わないことを
こうして発信しているのか。
「いまを生きたい」わたしの足掻き
つい1年ほど前まで、
私は「修行僧になりたい人生」を送っていました。
余計なものは欲しがらず、
裸一貫、徒手空拳で人生を切り拓く気概のみ持って
求道の道を突き進むかんじの
「持たざる者の渾身こそ美しい」悲壮感好きだったんです。
長い歳月をかけて
自分の思考を矯正し(たつもりになっ)て、
理想的に振る舞える環境も手に入れ
創り上げたアイデンティティは私のお気に入りだったと思います。
でも、いくつかの経験を経ると、人って変容するんですね。
過去の私がなんの衒いもなく言えた言葉は、
たぶん今の私には言えないと思います。
過去を美化するフィルターがかかっている可能性も否めませんが
私は、「過去の私」を惜しく思いました。
自分の不足を補うために躍起になって情報収集していたあの熱意は
少し離れてみると、稀有なものだったと懐かしく思います。
これ、残しておきたかったなあ〜
って。
でも、過去の惜しさにとらわれていると、
今を生きる時間を「過去」に奪われてしまうので
あまり振り返ってばかりもいられない。
今でも、「たかを括って居付き続けること」が怖いです。
常に成長していたい。
そんな中、今の状態を惜しく感じる日があります。
そういうときの、「ただ過ぎ去るには惜しい」と感じる何かを
書き留めておきたい。
「流記屋」は何をする人か
この流れゆくものを記したい。
それは「心」の流れでもあるし、
「時間」の流れでもあります。
あとは、
ふらふら流れていった先で出会う一期一会を書き留めたい。
人生は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり、
と申しますれば
この何気ない日々も人生の物語創造の一頁ということですね。
安心して今日1日を生きられるように、
記録に残していきたい。
今のマイブームは「命の活かし方探究」です。
のんべんだらりと適当に、ちまちま幸せだったら良いんだ
ろうに、それじゃ物足りないと感じるのが
私の業らしいです。
「命を燃やして生きている」という自負を持って生きたい。
ずっと頭の中で「たいたい」言ってるのも飽きてきたので
この探究をそのまま今の私の仕事にすることにしました。
なので、「流記屋」を名乗る、私の仕事は、
自分の命の活かし方を探究すること。
そしてそれを記録することです。
2023年8月25日 拝