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心照古教〜『大学』を考える〜【七】

道に至るための「八原則」

することを知りてのち、定まる有り。
定まってのちく静かなり。
静かにしてのち能くやすんず。
安んじてのち能く慮る。
慮りてのち能く得。
物に本末有り、事に終始有り。
先後する所を知れば則ち道に近し。

「大学」

「大学」を実践することで「至善にする」…
小我的な、自分の都合による善悪の観念から離れて
絶対的な善に到達すると、
次第に定まってくる、安定してくる。
安定して初めて静かになる。雑音を出さなくなる。
静かになるということは、
純一であること、熟練しているということなので、
人間の精神作用が静かに純一になって初めて安らかでいられる。
心が安らかであれば、よく慮ることができる。
当人が学んだ知識だけではない、身体に備わった知恵が発揮されて、
精神活動が自由に行われる。
それができれば、つまり、「慮りてのち能く得」。
その人を取り巻く情報や、微細な変化を多く把握することができる。
実態を的確に捉えて、最も調和的な選択ができるようになる。

この「得」の発達したものが道徳の「徳」であります。
そしてだいたい存在する「物」には本末がある。
「物」は存在をいい、その活動機能を「事」という。
すべて「事」には終始がある。
終わりは始めの終わりであって、同時に次の始めであります。
終始というものは循環する。とにかく一応本末がある。
時間的にはどれを先にするか先後がある。
以上は発展過程です。三綱領を動的実践的に見ると、
こういう八原則を把握しなければならないのであります。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

天には天のルールがある。これを「道」という。
地には地のルールがある。これを「理」という。
人には人のルールがある。これを「義」という。
これを踏み外したら人間失格というものが「義」ですから、
正しいことは義にかなっておるわけです。
その義にかなわないものを邪という。
だから、この「義」というものも「絶対」であるという事になります。

止まるから定まり、定まるから静かになり、
静かになるから安らかになり、
安らかになるから慮ることができ、
慮るから正しく得ることができる。
実はこれは一つのものなのです。
つまり、正しいと分かったならば、
正しく物事を判断し、正しく体得することができるという事になります。
その一つのことだけを言っているわけです。

伊輿田覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』

このことを念頭におきながら仕事をしていた間は、
こういう状態になるために、常に注意深くいようとしていました。

実感した効果としては、
日々の仕事の中で
ちゃんと仕事をしている人と、口先だけ・その場しのぎの人
の区別がついたことです。

周囲から寄せられる言葉から
適正な情報を選び出すことは、
仕事を進める上で大切なことだからです。

当時の私の問題点を振り返ると、

・エネルギーを供給する方法を知らず、
 一方的に消耗するばかりでエネルギーが枯渇したこと

・日々の観察の中で目につく
 「口先だけ・その場しのぎの対応」に
 無駄な腹を立てたこと

なんですが、これは「八原則」を心掛けたからではなく
私の気質と好き嫌いによるものなので、
一旦は力尽きましたが、
まだまだ伸び代はたっぷりあると思っています。

拠り所を持つということ



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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。