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自利利他〜自分を知ってこそできる利他〜【五】

自分のなかの宇宙とつながる


私のこれまでの人生にも、
本来「正しさ」はなくて、「選択」があっただけ。

選択は「正しいから」というより
「必要だったから」行われてきたと思います。

それでも、
過去の選択を「正当化」するために
感じることに制限をかけたりもしてきました。

「正しさ」に頼ろうとしていた時は、
すでに用意されているシステムの上に乗って
そこに適応することが目的になっていたと思います。

でも、
既存のレールは「すでに出来上がっている」というだけで、
それが永遠に存在し続ける約束はないし
「ルールが特定できる」という安心感があるだけで
それが常に適用されるとも限りません。

率先して社会に適応しようとしていた時分には、
「安全基地」さえあればもっとパフォーマンスが上げられる
と、安心できる場所を求めていましたが
システムの上で踊るだけの人生が楽しいかといえば
そうでもないんですよね。

宇宙は生きている

つい先日まで、youtubeの東映シアターオンラインで、
「空海」が公開されていました。

その中のセリフに、こういうのがあります。

大地も人も生きている。

この風も、この波も、この雨も、
一体なんだと思う?
天の息だ。
天の激しい息づかいだ。
胸の鼓動だ。涙だ。
この大宇宙は生きている。生きている。
風も雨も波も、その生きている証だ。
この風を治めようと思うな、
己が風になれ。
この雨を止めようと思うな、
己が雨になれ。

東映「空海」

生きてる以上、変わらないものは無いんだよな
と思いました。

もっといえば、

すでに用意されているレールの上を歩くのが人生だ
と断定してしまうのではなく

もっと縄文時代的な、
果てしなく広がっている未知のフィールドを冒険する感覚があって
はじめて、力が湧いてくる気がします。

ただ、ここで気になってくるのが夏目漱石先生の言葉。

もし人格のないものが無暗に
個性を発展しようとすると、ひとを妨害する
権力を用いようとすると、濫用に流れる、
金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。
随分危険な現象を呈するに至るのです。

夏目漱石『私の個人主義』

欲求には、たまに
他者を蹴落とすことを迫る「ノイズ」が混じることが
あるんじゃないかと思います。
これが、「ひとを妨害する個性の発展」
になると思っています。

その、刷り込みや視野の狭さからくる「競争意識」から離れて、
自分の本来の仕事(自利)のために力を注ぐことで、
自他ともに生かす「調和」が生まれるんじゃないかと思います。


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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。