見出し画像

心照古教〜『大学』を考える〜【三】

「正解」がない以上、自分の「欲」が指標になる


ここしばらく起こっていた一連の教訓を経て、
私は、行動指針を
外側にある「正解」の幻影から、自分の「欲求」に鞍替えしました。

でも、相変わらず
自分を無法に押し出して周りに迷惑をかけることはしたくありません。
子供のときに「これだけは」と強く戒めてきたことですし、
これは子どもの純粋な感性による美意識だと思うからです。

以前『街場の共同体論』か何かに収録されていた
「倫理」についての内田樹先生の説明がわかりやすかったので
実践を試みていたことがあります。
ほぼ同様の内容の記事がネットにも載っていたので引用します。

「倫理」というのは
「かたわらにある人たちと共に生きてゆくためのことわり」のこと
です。
集団を形成するための、人としてのあるべきふるまいのことです。
他の人たちと共に集団を形成してゆく時に、
どうふるまうべきかを定めた条理。それが「倫理」です。
別に、定型的な決まりがあるわけじゃありません。
だって、集団というのは一つ一つ違いますからね。
サイズも違うし、形成された歴史文脈も違うし、社会的機能も違う。
だから、箇条書きにして書き出すわけにはゆかない。
それでも、世界中のすべての集団に汎通的に適用できる基本的なアイディアはあると思うんです。僕の考えは割と簡単です。それは

「集団に属する人が全員『僕みたいな人間』でも、
とりあえず気楽に暮らせるような人間であること」
です。

簡単みたいですけれども、これは意外に厳しい条件だと思うんですよ。
集団に属する人間が全部「自分みたいな人間」であるような集団を想像してみてください。その場合、自分がどういう人間であれば、耐えられますか?
例えば、あなたが言うことがつねに首尾一貫している人間だったらどうします。いつも同じことを言い、同じようなリアクションをする人間だったら。あるいは「オレなりのこだわり」とか「オレのポリシー」があって、それについては一歩も譲らない人間だったら。そんな人間で埋め尽くされた集団にいたらたまりませんよね。全員が鏡像のように似ている集団なんて、想像するだけで息が詰まりそうになる。
じゃあ、周りがどんな人間たちだったら、息がつけるか。

内田樹「倫理的に生きることは、自身に祝福を贈ること」

周りにいるのがどんな人間なら、息がつけるか。

内田先生は、一つの答えとして
「それは、例えば、
 オレ、今日はご飯作る係やるよと言ったら、
 じゃあ、オレ掃除するわとか、オレ買物に行くわとか、
 ぱっぱと立ち位置や機能を変えることができる人間。
 役割が固定しないで、その場においてふさわしい、
 その場に必要とされることが何であるかを察知して、
 それができる人間
。」と続けます。

私は当時、「確かにそうだ!」と思って
実際に「必要だが担い手がいない役割を察して
そこを補うために働く」と言うことを数年やり続けました。

結果として、どうなったかといえば
おそらく出る杭になって打たれたんだと思います。

それによって、私は
「これ以上は限界だからこの環境を離れよう」と決めました。

仕事を引き継いだ方には
「ありがとう」と言ってもらえましたし、

同じ職場で働いていた方たちからも
温かい言葉をかけていただいたので

「私は力を尽くしたが、
 我を押し出していたわけではない」と
今でも信じています。

毎日自分を省みていましたから、
それだけは問題なかったと信じている。

ただ、振り返っての反省としては、
現場に必要なことを察知して継続的に機能するには
自分の感覚の麻痺具合と、
自分の気力の限度を把握しておくこと
が必要だと言うことです。

無理を押して動き続けていると、
自分が持っている「譲れないもの」が
次第に剥き出しになってくる
感覚も確かに感じていたからです。


己を修めて、国を治めるための人間学


知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。