心照古教〜『大学』を考える〜【三】
「正解」がない以上、自分の「欲」が指標になる
ここしばらく起こっていた一連の教訓を経て、
私は、行動指針を
外側にある「正解」の幻影から、自分の「欲求」に鞍替えしました。
でも、相変わらず
自分を無法に押し出して周りに迷惑をかけることはしたくありません。
子供のときに「これだけは」と強く戒めてきたことですし、
これは子どもの純粋な感性による美意識だと思うからです。
以前『街場の共同体論』か何かに収録されていた
「倫理」についての内田樹先生の説明がわかりやすかったので
実践を試みていたことがあります。
ほぼ同様の内容の記事がネットにも載っていたので引用します。
周りにいるのがどんな人間なら、息がつけるか。
内田先生は、一つの答えとして
「それは、例えば、
オレ、今日はご飯作る係やるよと言ったら、
じゃあ、オレ掃除するわとか、オレ買物に行くわとか、
ぱっぱと立ち位置や機能を変えることができる人間。
役割が固定しないで、その場においてふさわしい、
その場に必要とされることが何であるかを察知して、
それができる人間。」と続けます。
私は当時、「確かにそうだ!」と思って
実際に「必要だが担い手がいない役割を察して
そこを補うために働く」と言うことを数年やり続けました。
結果として、どうなったかといえば
おそらく出る杭になって打たれたんだと思います。
それによって、私は
「これ以上は限界だからこの環境を離れよう」と決めました。
仕事を引き継いだ方には
「ありがとう」と言ってもらえましたし、
同じ職場で働いていた方たちからも
温かい言葉をかけていただいたので
「私は力を尽くしたが、
我を押し出していたわけではない」と
今でも信じています。
毎日自分を省みていましたから、
それだけは問題なかったと信じている。
ただ、振り返っての反省としては、
現場に必要なことを察知して継続的に機能するには
自分の感覚の麻痺具合と、
自分の気力の限度を把握しておくこと
が必要だと言うことです。
無理を押して動き続けていると、
自分が持っている「譲れないもの」が
次第に剥き出しになってくる
感覚も確かに感じていたからです。
→己を修めて、国を治めるための人間学
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。