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心照古教〜『大学』を考える〜【八】

拠り所を持つということ

八条目

古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。
その国を治めんと欲する者は、まずその家をととのう。
その家を斉えんと欲する者は、まずその身をおさむ。
その身を脩めんと欲する者は、まずその心を正す。
その心を正さんと欲する者は、まずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。
知を致すは物をただすに在り。

「大学」

孔子は古に理想の社会を追い求めております
しかし、「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む」というように、昔の明徳を自分だけが明らかにするのではなくて、天下に明らかにする。それによって平安をきたすものだとし、それを望むものはまず自分の所属する国をしっかり治めなくてはならないと言ってします。
そして「その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉う」で、自分の国を治めようと思うものは、まず自らの家を斉えなくてはならないというのです。

伊輿田覺『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』

「大学」をまとめた学団の筆頭であり、師である曾子そうしは、
孔子の教えを忠実に実践した人でした。

漢民族というのは、いろいろ物を考えるようになって、
この現実、したがって実践を重んずるようになり、
黄河の流れに随ってあるいは東し、あるいは南して、
気候・風土・猛獣・毒蛇・土人と戦いながら次第に発展した。
まことに実践的・現実的な性向をもち、観念や空想や戯論を許さない
そこで単なる理想や空想を描いて喜ぶ、というような空虚さには耐えられない。あくまでも実践・実現を旨とする
価値あるものほどユートピアとして甘んずることができない。自分の欲するものほど、単なる理想・空想ではなくて、それは偉大なる人々によってかつて実現されたものとして、実際性をもたずして理想となし得なかった
だから東洋の尚古思想は、西洋のユートピア思想に対して逆の、過去に愛着する思想であると簡単に決めることは浅はかなことであります。
それはむしろ「ユートピアにしておくには忍びない」という理想精神の要求が、この尚古思想を作ったものであると理解しなければ、東洋文化・東洋民族精神に本当に参ずることができない。
生命に入らなければ、概念の遊戯や気分の満足に終わってしまう。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

ここで思い出したのは、今年(2023年)の7月にお伺いした、
池上実相寺での「論語を楽しむ」講座でのお話
です。

温故知新

古い記憶(教え)をぐつぐつ温めていると
新しい知が生まれる。
それを温故知新という。

講師の安田登先生がおっしゃっていた解釈が、
頭の中に響きました。

「故き知」は何を指すのかを自分なりにまとめてみると

①古典(長年読み継がれてきた良書=真理に近い教訓)
②先人・先輩(豊富に経験を積んできた人)からの教え
③自分(経験を蓄え、内側で「知」をぐつぐつ温めるための器)

この三つから生み出されるもの…だと思っています。

慮るとは、周囲の情報を知覚するために全身をつかうことだと思います。
そして、「明徳を明らかにする」ためには、
当事者意識を持つことが必要不可欠だとも思っています。
その場に入れ込む…「生命に入ら」なければ、
「概念の遊戯や気分の満足に終わってしまう」からです。

物事を正しく…つまり、
「もっとも調和のとれる選択」、
英断ができるようになるには
目前の課題を、「ノイズ」を払って見る必要がある。

このノイズは、思考停止であり、「過去の遺物」でもある。
「遺物」の手放し方は、自己対話しかない。
「我」や「私」の雲はいつだって側に控えているものだからです。

これが、日々を新たにする工夫だと思う。

格物致知

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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。