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命から湧く言葉を残したい。

は達するのみ」


伝えたいことを書こう、
と決めておきながら

相変わらず
独白めいたことを書きます。

先月あたりから、
自分は何を伝えたくて「ものを書く」のか
について考えていました。

その時々で浮かぶ想いはありつつも、

「何を伝えたいか」以前に、
自分自身が実践していなくては嘘だ
という自戒が目前にそびえ立って、

言葉にするに至らないまま、
時間を過ごしてきました。

何に命を掛けるか


ここに至って、
言葉を尽くそうにも言葉を知らず、
ただただ朴訥とした認識を披露することになりますが、

私は、

命とは、「行為する力」だと思っています。

それを、場面にって
生理的に必要な活動に使ったり、
労働に使ったり、
遊びに使ったりしてきた。

命のすることなのだから、
全てを肯定したいところですが、

人の中で起こる反応のままに動いていると
「素直に命の声を聴いたと言えるのか」
と疑問を感じるような行為も起こってくる。

有限の命ですから、
極力、望まぬ浪費はしたくない。

命そのままの要求に従って生きる、
と言うのが、今の私の希求するところです。

また、

人生とは、「今」この瞬間なんだと思っています。

この一瞬一瞬の、延々たる積み重ねが人生をつくるのだから、
「〇〇のために」と妥協して、主体性を失う選択は
極力したくない。

私的な野望にせよ、
広い視野からくる志にせよ、

やりたいことがある人の周辺には、
多くの人を巻き込もうとする引力が起こります。

それが自身の想いと共鳴するものであれば幸運ですが、

うっかりすると、
自分の立脚地とはまったく無関係のものにも
巻き取られかねないんですよね。


ここしばらく、このことを肌で感じて、

自分は、自分で選んだものに命を掛けたいと思いました。

これ以上、人生の一瞬をも、
誰かの事情に譲りたくないと思いました。



自分がこれまで、
意地になって実践しようとしていたのは
「自助」だったと思っています。

…イキがるわりに無力で、
さまざまなひとのお世話になってきたことを
自覚してもいますが、
だからと言って、自力で立つこと、
立とうとすることを止める理由にはならない、

助け合いは、
自分のことを自分でしているひと同士が
協力し合うことであって、

している人がしようとしない人を
一方的に世話しつづけることを
「助け合い」とは言わない、
それは「荷物を抱える」と言う

これは往年の私の戒めであり、
おそらく今後も、
(体力がある限り)私がイキがる原動力になると思います。

私にとって“必要なもの”は何だったか


丁寧で緻密な選択をするために

私が黙していた間、
書くに値する「実践」をするために
「何をすれば、していることになるか」
を考えていました。

それは
「自分の日々を生きる」ということに
尽きると思うのですが、

そのために、
自身に長年染み付いていた
判断基準を変える必要がありました。

平たく言えば、これまでが
大量消費のために大量生産されたものを
節約のために選ぶような生活だったんですよね。

「安い」「簡単に入手できる」から、
という理由で
いろんな誤魔化しの上に成り立つものに
軽率にエネルギーを向けることをやめ、

自分の、
限りある人生や命を、

大切にしたい、応援したい、
これからも続いていって欲しいと、
私自身が感じたものに向けて
使っていきたい。

この世では
使われるモノが殖え、
使われないモノが消えていくんだろう
と思うからです。

ただ「安い」「手近」というだけで、
私が特に思い入れもないものを選んでいる間、

私のエネルギーは
「大切にしたい」ものに向けられておらず、
送られていないのだから、届いていない。

「応援したい人にお金を支払う」以前の、
お金を得るための労働もそうで、

「とりあえずたくさん手に入ったほうがいい」とか、
「衣食住気にしなくていいし、これでいい」とか
で選ぶとどうも、

生きた心地がしないんですよね。
命にぶ厚い膜が張って、窮屈なかんじがします。

目前の物事に打ち込めないのはしんどいし、
私が携わっている間の、
たずさわられている仕事にも失礼です。

窮屈さに判断力が鈍って、
「これでいい」の循環に陥り
エネルギー(命と人生とお金)が浪費されたりもします。

いいことなしです。


私を生かしてきたものを問い直す


宣伝広告の影響で出来上がった“常識”によって
「欠点にされた」自分の特徴を矯正するためでなく、
「良いと思わされた」ものを手元に引き寄せるためでなく、


ただ生きている今の「私」には、なにが必要か。

改めて考えてみました。



その結果、
私が思いつく限りの
「大事なもの」は

木と、水と、米(食料)

の三つになりました。

「水」と「食料」は、言うまでもなく
生まれて三十年余りお世話になり続けているものです。
これらに養われ生かされてきました。

それだけでなく、私は幼少期、特に
「本」によって救われ育てられたと思っています。

本は「紙」と「インク」によってできていて、
紙は「木」を切り刻んでつくられている。

生きた「木」によって
「水」が清められてもいますから、

私は「木」による
下支えの上に生きてきたわけです。

ただ彼らの犠牲を消費するのではなく、
彼らが生きて行く循環を、促す側に身を置きたい。

ここしばらく旅をして、
「龍脈」との縁を感じることがしばしばありました。

不動尊(山)に負担をかけない洗剤について考える機会を得たり、
「杜づくり」の活動を知ったりして、
ここで足踏みしている時間の分だけ私は私を嫌いになるだろう
と感じるくらい、わかりやすく道が示されていると思いました。

ずっと、人工の世界で生きてきた身なので、
しばらくはポンコツを晒すことになると思うのですが、

始めないといつまで経っても
「やりたいと言ってるだけの部外者」から
抜け出せないと思うので、
さっさと「やってる」側に渡るに限ると自分を奮い立たせます。

一億総生産者であれば、
米の買い占めも奪い合いも起こらない

「木」の話ばかりをしましたが、
「米(食料)」…「農」についても、同様に考えています。

ちょうど「米の買い占め」の問題が
目についたこともあって、
ふと思うことがあったんです。
(素人の浅知恵かもしれませんが)

食料の生産を自分でできる人が主流
のコミュニティが拡大すれば、
ないものはまず自分で作ろうという発想になるから、
奪い合いは起こらなくなるんじゃないか。

役割分担の関係で「つくれない」ままの状態にいる人も、
日頃協力しあっているお隣さんがいれば、
余ったところに「くださいな」って
言いに行けるんじゃないか
…と。

思った以上は、まず自分がしないと嘘になります。

実践していることを言葉にしたい

「ことば」による神仏しんぶつ宇宙うちゅうつつ

私は長年、
「自分の役割が欲しい」という渇望を持っていたんですが、

ちょうど今年に入って、
その「役割」を
神仏に教えていただけたと感じる流れを経験しました。

この経験を受けて、

この身体を筒にして、
神仏御霊みたま・この身と繋がる宇宙の
純粋な意図を汲み取って、 然るべき形で表現する、
そういう役割を承る

と、宣言しました。

私にできる表現は、「ことば」によるものだと思ったので、

「書く」ことで、この役割を担っていこうと決めました。

そのために、
筒となる「身体」の声を聴こう、
身体感覚を純化していこう、
という方針を定めて、
「野口整体」の世界に足を踏み入れました。

今日に至るまで、必要な選択はできてきたと思います。

あとは、ただ、さらなる一歩を踏み出すだけ。

一歩一歩踏み出すことが、歩みを進めることになる。


自分を殺さない選択をしていくために

今後、noteは
「月に四度ほどのペースで更新する」
という方針に変えて行こうと思います。

こうして記事を投稿するには、
ネット環境に繋がらないといけないんですが、

スマホ(とか、それに類するもの)って、
触っちゃうと、どうしても時間吸われるんですよね。

さらに言うと、
ふとした拍子に見た広告に踊らされて
「買っちゃった」ものもぽつぽつ出てきていて…、
空恐ろしさを感じているアイテムなんです。

そもそもが、
売り手がたくさん売りつけるために
「中毒になる」よう設計されて作られたもの
らしいので、
正直、お世話になるのが嫌になっています。
依存させよう、コントロールしようと囲い込まれると
離れるのが人心ってものです。

まんまと五年ほど、
スマホの沼に足を取られているのが歯痒いところですが、
どうにか距離を取るために、
湧き出る言葉を書き留めることを
アナログに切り替えていこうと思います。

時間を吸い取られ、踊らされてきた場所から
距離を取ることで得られた時間は、
ちゃんと「実践」に使っていきたい。

これから進んでいく先は、「農」、「杜づくり」、「身体の声を聴くこと」

今の私は、

農業、
龍脈の杜づくり、
野口整体(身体の声を聴くこと)

この三つのテーマを柱として、
何かしらの行動をし、
その実践の上に湧く言葉を
書き残していきたいと思っています。

次に記事を書きにくるときには、
何か一歩を踏み出して、
実践の上に出た言葉を紡ぎたいです。

2024年9月4日 拝


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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。