「どう考えるか」の「どう」って
”何を考えるか”ではなく、”どう考えるのか” 大事と。
なんとなく、わかるような、わからないような。
なので、ちょっと分解してみます。
「何を」だと、そのことだけを、そのことだけで考える感じ。そのことにだけ視点が固定されるので、思考がロックされてしまう。これはちょっと別の視点に向かおうとしても身動きがとりにくい気がします。
今、何かを変えたいのなら、確かにこれはちょっと違うかも。
一方の「どう」は、考える「方法」のことを言っているんだろうなぁと思う。じゃあ、その「方法」って、どんなのだろう。
『古事記』に「天の岩戸プロジェクト」を指揮した思兼神(おもいかねのかみ)という神さまがでてきます。思兼神はプロジェクトの司令塔として、鏡や神事に使う道具の制作、その設置、本番での踊りや祈りの役割分担を決めて、専門の神々に指示をして「天の岩戸に隠れたアマテラスを機嫌よく外に連れ出す」というプロジェクトを成功に導きます。
この神の名である「思兼」とは「思いを兼ねる」ということで、複数のことを同時に合わせて思う(思考する)という意味です。この方法は古来より日本人が大事にしてきた思考方法で、異質と思われるものを合体して新しいものを作り出したり、新しい意味を生み出すことは、現在でもいろんなコラボレーションにみられるとおりです。
例えば、古代の人は、稲に松を合体させて【松苗】というものを生み出して、そこに永遠の五穀豊穣を見出しました。[稲穂の豊穣]+[松の永遠]です。
実際に合体させたのではなくて、松の小枝の芽が稲穂に見えることからそれを稲穂に見立てたのです。(「どう見るか」ですね)
【石上神宮の松苗】
こうして合わせることで新しい価値が生まれます。なので、
「どう考えるか」の「どう」とは、何と一緒に考えるかということだと思います。どうしても無意識のうちに、いつも同じ「ものさし」で物事を見たりしがちですが、その「ものさし」を取り替えてみる。そして「ものさし」は一つに固定せずにどんどん取り替えていく。連想のことですね。そうすると、思考している範囲が網目状に広がって行きますが、結論を焦らず、その組合爆発を恐れないでどんどん広げていくと、あるとき最適解がパッと繋がる。(この方法は量子コンピュータがしようとしている方法でもあります。)
そのために、できるだけ自分の心の中を柔らかく、動きやすくしておくこと。それって「囚われない」ということだと思うけれど、心を自由にするって、実はとても難しい。心の中には既にいろんな物事が棲み着いているので、知らない間に窮屈になっているんですね。
心を動かすために、ちょっと「よそへどいてもらう」ようにできるといいのだけど。