「都鳥」という名をもらったユリカモメ
不忍池にたくさんのユリカモメがいました。
時々、池のまわりの広場にいる鳩たちと
小競り合いみたいなこともしながら、
今日は楽しそうでした。
家に帰ってユリカモメかどうか確かめてみたら、
ちゃんとユリカモメでした。
そしてこの鳥があの「都鳥」だったことを知りました。
そして「東京都の鳥」になっていることも。
全長40cm。冬鳥として、全国の河、河口、湖沼、海岸に至る水辺に来ます。赤いくちばしと足がきれいな小型のカモメの仲間で、水上に群がる姿は白い花が一面に咲いたようです。在原業平や和泉式部の古歌に登場する都鳥(みやこどり)はこの鳥で、東京都の鳥に指定されています。
【日本の鳥百科 サントリーの愛鳥活動 サイトより】
昔、男(在原業平)が隅田川に差し掛かった時に見かけた鳥のお話。
「これは何鳥ぞ」と問ひければ、
「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる
名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
『風流錦絵伊勢物語』第9段「東下り」隅田川の景(勝川春章)
Wikipediaより
「都鳥」という名前を背負っているのだから、
「都」のことはなんでも知っているだろうって、、、
名というのは恐ろしい。
それにしても、東の国の人々が、冬にやって来るこの白くて赤い足をした鳥のことを「都鳥」と呼んだ訳はなんだったのでしょう。
この鳥の姿と都のイメージを繋ぐものはなんだったのでしょう。
水に浮かぶユリカモメは、足の赤さが見えないので、透き通るような白とグレーのグラデーション。とても清らかな印象がします。
そしてこの故事が由来となった言問橋は、不忍池からすぐ近く。
不忍池から東へ直線で1.5kmのところにある、浅草から向島へ隅田川に架かる橋の名。
1200年前の在原業平(825-880)たちが歩いた頃は、橋はなく、渡しが行き来していました。その頃ここはどんな景色だったのだろう。。
上野の東はガツンと低くなっているので、上野というのは「上の野」からついた名なのでしょう。なので、ここらあたりは、水辺の草が広がっていたのかもしれません。あっ、だから「浅草」?。浅い場所に草がいっぱい生えているところ。
Google map より
浅草の浅草寺は都内最古の寺で、飛鳥時代の推古天皇36年(628年)に1寸8分(約5.5センチ)の金色の聖観音像を供養したのが始まりだそうなので、業平がこの辺りを通った時には浅草寺もすでにあったのでしょう。
近くに「田原」や「稲荷」の地名(メトロの駅名)も見えますので、雷門の周りには田が広がっていたのかもしれません。
【浅草寺】Wikipediaより
その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。
そしてもう一人、業平から100年後を生きた和泉式部(978-?)も都鳥のことを詠っています。
仮屋して、浜面に臥して聞けば、都鳥鳴く
言問はばありのまにまに都鳥都の事をわれに聞かせよ
(『和泉式部集 和泉式部続集』岩波文庫 681)
こちらの場所は、前後の歌の詞書から推測すると摂津国の淀川のあたりにいたときのようですが、もうすでに「都鳥といえば言問ひ」が常識になっていたようです。
今度、ユリカモメをみたら、
わたしは、誰のことを尋ねよう。。。
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