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紅花と紅葉と紅絹と(動作から生まれる言葉たち)
古来、日本人は自然にあるものから、たくさんの染料を見つけ出して、様々に染めてきました。
でも意外なことに、花そのものを染料にしているものは「紅」の紅花がその唯一のようです。紅花は末摘花(すえつむはな)とも呼ばれて、源氏物語に登場する姫君の名前にもなっていますが、その花の色はご存知のように、紅ではなく黄の色です。
この黄色の花びらを摘み取って、力を込めて揉むと、黄色の色素が水に溶け出してゆきます。そして、それを何度も流してゆくと、やがて鮮やかな紅色が現れます。
そこで古代の人はこう結びつけました。
「もむ」という行為 → 紅が現れる
∴ もみ = 紅
「もみ」は「揉む」という動詞の連用形による名詞化で、人々は着物の裏地の「紅絹」を「もみ」と呼んだり、稲の「籾」を「もみ」と呼んだりしました。
古代のお米は赤米でしたので、稲穂は黄金色ではなく赤く稔ったのですね。
また、紅花を「もむ」ことで、花を覆っていた黄色が水に「うつ」ってゆきますので、
「もむ」という行為 → 色がうつる
∴ もみ = 色のうつり
という関係式も成立したようで、「もむ」+「路」から「モミチ」という言葉がうまれてゆきました。
もともと紅葉は、色がうつってゆく過程そのものを指していたのでしょう。古代の人は「もみじ」のことを「モミチ」と濁らずに発音していて、初めは「黄葉」、平安時代以降に「紅葉」と書く例が多くなります。
秋は、里も山も一面に赤くなって行く。燃えるように、劇的に。
「もえる」春は萌え、秋は燃え。
「も」という音にはなにかエネルギーが秘められていそうです。
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また、染める時には、布や糸が色に染まるほど、染め液は透明になってゆきます。
なので、色が染まるというのは、色の粒が移ってゆくのだということ。さらに、それはなにかの力によってなされる。ということを、古代の人は染める行為を通じて体感していたのでしょう。
そういえば幼い頃、何か大事なものを、そっとしておいて欲しいときに、「いろったら、あかんよ」とか「いらったら、あかんよ」と言っていました。
触るだけでなく、動かしてしまうことを「いらう、いろう」と言うんです。この言葉が関西弁なのか讃岐弁なのかは不明なのですが。
もしかしたら「いろ」という言葉には「何かに対しての何かの作用」という語根があるのかもしれません。それは作用する「能」のようで、「生きる」証ともいえそうです。
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そして「紅」は、紅花の「芯」としての「本来のすがた」と認識されましたので、さらに概念化されて、
「もむ」という行為 → 余分なものが取り除かれて本来の姿が現れる
という関係式も見出されました。
そこから、体をほぐしたり、練習相手になってあげたり、テーマを掘り下げたりすることに対しても「もむ」という言葉がはまっていったのでしょう。
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紅染の着物を着るとき、紅絹の裏があるアンティークの着物を着るとき、
いつも、この「もみ」のことを想います。
なにかが胸に灯るように。
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