狩野派の合戦図、未完の残念。
これ、ものすごく見たかった。
「長篠合戦図屏風下絵」と「長久手合戦図屏風下絵」
大坂夏の陣が終わって二年後の1617年、15歳の狩野探幽が徳川幕府に召されて以来250年間にわたり、狩野派が幕府と諸藩の御用絵師を独占していました。
奥絵師としての狩野派の用は、江戸城中の調度のデザインと絵に関わる膨大な「画事」全て。鑑定のために諸大名から持ち込まれる名品を模写して絵画情報を蓄積し、模写を通じた教育プログラムを確立し、「画所」というアカデミー的な養成所を構えて、組織として一人一人のスキルを磨き、チームワークで大量の画業をこなす。
その方法は模写の転用を重視した粉本主義(粉本は絵の下書きのこと)と批判されることも多いのですが、この屏風絵が未完となった18世紀の終わりから19世紀にかけては、京で伊藤若冲、円山応挙、曾我蕭白、池大雅らの様々な新感覚(緻密で、奇想で、リアル)な絵が世に出た後で、江戸では喜多川歌麿、葛飾北斎の浮世絵が世間を席巻していた時代。江戸城の奥絵師・狩野派の絵師たちはきっと悶々としたものをかかえていたのかもしれないです。
そんな中、持ち上がった「8曲1双の合戦図」の仕事。右に「長篠の戦」を8枚の屏風面に描き、左に「長久手の戦」を同じく8枚の屏風面に描くもの。超大画面です。きっと心躍ったに違いありません。下絵にはひしめくように約1.5cmの人が戦う場面が描かれているのですから、おそらく戦の何千何万の実際の人数を描いて、細部まで戦闘の様子をリアルに描くつもりだったと思います。
でも、度重なる幕府の内容チェックを受けて、その進行は難航し、木挽町狩野家三代(惟信、栄信、養信)にわたり制作が続けられたものの、遂には完成にいたりませんでした。
徳川将軍をはじめ幕府を構成する譜代大名たちにとっては自分たちの先祖のこと、「どう見えるか」を巡って細かい意見があちこちから入った事は容易に察しがつきます。全体としては賛同するけど、部分部分にクレームがつきまくる。で、クライアントの幕府も意見を集約しきれない。もしかしたら、これは狩野派から将軍に提案した仕事だったのかもしれない。
幕府の御用絵師だから描ける新図(新しい絵)なのに、御用絵師だから進まないとは。。強みが同時に弱みになることを見せつけられて、なんとも言えない気持ちになりました。
下絵からいろんなことを想像できます。たくさんの切り貼りと、所々に白塗りの修正。でもでも、絵師たちがどの部分もとても詳細に人と馬を活き活きと描いていて、それが戦いの布陣と流れとなって屏風絵全体を形作っている。
京でも江戸でもない殿中からのまったく「新しい絵」。チームワークの大作。世界中のどこにも今でもなお、見たことがない。
この屏風の完成したものを本当に見たかった。
*上記の屏風絵下絵全体の写真は東京国立博物館広報室のFBより。それ以外の写真は筆者撮影。
「木挽町狩野家の記録と学習」 東京国立博物館 本館 特別1室・特別2室で(2021年3月21日(日)まで)