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イザナギとイザナミの海(2) ー 万葉集・百人一首の大阪湾

『百人一首』の編者といわれる藤原定家自身の、百人一首の和歌

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
権中納言定家(百人一首 97)

先日のNHKのブラタモリという番組で「松帆の浦」を訪ねていました。
松帆(まつほ)の浦は淡路島の北の突端にあって、明石海峡の向こうに明石の街並みを眺めることができる場所です。ここは大阪湾の入り口に位置しますので、幕末には外国船からの防衛を目的に、お台場が築かれていたそうです。

「まつほ」という名は古く、万葉集にも詠われた穏やかな海に囲まれた名所です。日本の海沿いには松がたくさんありますが、「まつ」はであり、待つでもあり、帆(船)を待つ場所であったのかもしれません。それは、やってくる船だったり、風を待つ船だったりしたのでしょう。

番組では、松帆の浦にやってきたタモリが、「もしかして、あの定家の百人一首の場所でしょうか?」と案内の方に尋ねていました。そのやりとりを聞きながら、地名を聞いて歌を思い起こすなんて「ああ、ここが・・・」と、一瞬記憶の中を旅するようで、素敵なことだと思いました。

定家のこの歌は漢字を当てるとすっと、情景と余情が伝わってくる歌です。

来ぬ人を、松帆の浦の夕凪に、焼くや藻塩の身も焦がれつつ

なので、一見技巧的に見えないのですが、いくつものリンクが貼られていて、百人一首にこの歌を選び切った心情に思いを馳せると、高揚感を伴って気持ちが膨らんでいきます。
白洲正子の『私の百人一首』をみてみましたら、この歌は万葉集の長歌の本歌取りをしていることがわかりました。

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『私の百人一首』白洲正子 新潮文庫

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『万葉集 全注釈原文付(二)』中西進 講談社文庫

(神亀)三年丙寅秋九月十五日、播磨国印南郡に幸しし時に、
笠朝臣金村の作れる歌一首

名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海少女 ありとは聞けど 見に行かむ 縁のなければ 大夫の 情は無しに 手弱女の 思ひたわみて 徘徊り われはぞ恋ふる 船楫を無み

(万葉集 巻第六 935)

この長歌には反歌が二首続きます。

玉藻刈る海少女ども見に行かむ船梶もがも波高くとも (万936)
行きめぐり見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜にしきる白波 (万937)

神亀三年は726年です。万葉集の反歌は長歌に歌われている内容の要約だったり、返答といったものが多いのですが、この頃の「大事」と思う共通感覚が知れる大事な手がかりになります。

(1) 玉藻を刈っているカワイ子ちゃんを見にいこう。船梶があったらなぁ、波が高くても大丈夫だから。
(2) ああ、名寸隅(なきすみ)の船瀬の浜にしきりに寄せる白波を想像してみて。そこを行き巡るのは全然飽きないくらいきっと素晴らしいはず。

反歌を読むとこの頃は、ただただ美人と美景に素直に憧れる感じであるのが、伊勢物語や源氏物語の「もののあはれ」を経た500年後の定家は、「ここをこそ取るべきでしょう」とばかりに「松帆の浦」と「夕凪」と「藻塩焼く」を取り出して(本歌取りして)、船ではなく恋しい人を待つ、朝ではなく寂しさが広がる方のの頃に、焼かれて身を焦がす、に転じています。

「本歌取り」はズバリ、「どの部分」を取り出して「どう転じる」のかが重要なのです。と定家が話しているのが聞こえてきそうです。

と、書いていて、ふと、淡路島は朝も夕も「凪(なぎ)」。凪凪凪。
万葉集の歌にある感覚は、古代からの感覚が残っていて当時の常識が織り込まれていますので「淡路島といえば凪」なのです。
確かに大阪から明石にかけての海はいつものんびりしていて、凪いでいることが多い。朝も夕も鏡面のように平らになります。

だから「イザナギ」の治むるところなのかと。

一方、内海を出て外海となる中央構造線の南側の太平洋に面した海岸は、波が高い。淡路島の南にある沼島は中央構造線の外側になりますが、ブラタモリでも「波の様子が一変した」と言っていました。

だから「イザナミ」のテリトリーなのかと。

イザナミとイザナギの海2


凪(ナギ)と波(ナミ)。

【ナギ】は「なぐ」という動詞の連用形による名詞化で、一方の【ナミ】は「なむ」という動詞の連用形による名詞化でしょう。

「なぐ」は、薙ぐ、投ぐ、凪ぐ、和ぐという漢字があてられ、横ざまに払う感じや、やわらいだりしずまる感じです。そして、「なむ」は、並むという漢字が当たりますので、並んだり連なる感じがありますが、先の長歌には「無む」とあって、コントロールができない感じを持っていますので、その両方が合わさって「波」となっていったのでしょう。
波は、同じものが無限に繰り返し並んでいますし、波は人がコントロールできないものでしたから。

イザナミとイザナギの名前の源にも中央構造線があるようで、それによって囲まれた地域に祀られる神々も、何かを語っているようです。

それにしても、男は凪で、女は波。というのは本当にその通りだと、年を重ねるにつれて実感が深くなります。




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