ユーラシアを分けた海ーカスピ海
カスピ海
世界地理で習ったきり、その存在は知っているような知らないような、遠い異国の大きな湖だというぐらいにしか思っていませんでした。
でも実は、カスピ海はユーラシア大陸にあった「大きな内海」の名残で、その海が西のヨーロッパと東のアジアとを、決定的に切り分けた存在でした。
そのことを知ると世界の見え方がきっと一変する。
そんな予感がするのです。
言い換えると、地球で一番大きな大陸にある約100の国々の成り立ちについて、そして現在のグローバル世界で起きている様々なことに対して、俯瞰の目を持ち易くなりそうなのです。
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カスピ海(英語ではCaspian Sea)は今では陸地に囲まれた塩湖ですが、海と湖では、「法」の扱いが異なるのでしょう、2018年に沿岸5か国の間で締結された協定によって、カスピ海は「海」と認定して領海協定で扱うことが合意されました。
「カスピ」という名は、カスピ海南部(現在のイラン)にいた古代部族「カス」の名に由来します。
イランの首都テヘランの北西約150kmに位置するガズヴィーンという州都の街の名も、この古代部族に由来する名前です。
ガズヴィーンは、カスピ海の南端の次ぐ近くですので、古代のカス族や他のまわり部族は、この海を「カス族の海」だと呼んでいたのでしょう。
ヨーロッパとアジアの境界
ヨーロッパとアジアの境界線は、どこかの機関や国際法で明文化されているわけではありませんが、長い歴史の中で両者を分けて来た境は、山脈や海や大きな川でした。
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最近読み進めている『馬・車輪・言語』の著者、デイヴィッド・W・アンソニー David W.Anthonyvは、アメリカ、ニューヨーク州にあるハートウィック大学の考古学・人類学教授で、東欧から中央アジアにかけての先史文化の専門家です。
2007年に出版された後、本書で「アメリカ考古学協会賞」を受賞し、2018年には日本でも東郷えりか(訳)で筑摩書房から出版されました。
この本には、印欧語族語の発生と伝播について詳しく論説されています。
その本筋の話も面白いのですが、それと合わせて、日本人の私にとって興味深いのは、
ということを生感覚で触れられることです。
今、上巻の半分ぐらいまで読み進みましたが、同じ世界史上の事件でも、日本で学ぶ世界史の視点とは、まるで見ている方向が違うのです。
鏡の国ではありませんが、読んでいると、全く反対に世界を見ているような感覚になります。
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印欧語族の原郷を語るにあたって、カスピ海はとても鍵になる場所のようで、この海についてこう記しています。
フヴァリニ海というのは、日本語のネット上では、ほとんど検索ヒットしませんでした。
氷河期末期の海面の上昇のことは、日本では縄文海進と呼ばれ大阪の河内にまで海が入って来ていたことも最近になって詳しい記事が見つかるようになりましたので、まだまだ研究が進められている途上というのと、日本人には知られていない存在なのでしょうか。
それでも、似た言葉を当たって見つけたこの「クヴァリンスク文化」が「フヴァリンスク文化」とも言うそうなので、「フヴァリニ」という語と関連がありそうです。
一方、ホラズムの海の「ホラズム」という言葉は、検索したらWikipediaにありました。
現在はウズベキスタンとトルクメニスタンに分割されている場所ですが、この名であるのは、ここがかつて海だったことの名残なのでしょう。
そこで、さきほどの内容を順に追ってみることにしました。
まず、北半球の最終氷河期の様子です。
この水色の部分の氷が溶けて、カスピ海盆地に流れ込みました。
国土地理院の地図の様子から想像するに、こんな感じで融解水がカスピ海盆地に押し寄せたのでしょうか。
さきほどのホラズムの場所も海になったとしたら、フヴァリニア海はこんな感じで、ウラル山脈が島みたいに浮かんでいたのかもしれません。
そして、フヴァリニア海について詳しい記述が続きます。
フヴァリニア海の北の汀線だったという、現在のヴォルガ川のサラトフとウラル川のオレンブルグの位置です。
北部に汀線があるということは、このサラトフとオレンブルグよりも北は海ではなかったということなので、フヴァリニア海は、こんな感じのようです。
ということは、融解水はウラル山脈の右手(アジア側)から流れ込んだと想像されます。
氷河末期の採集民の文化についても、この『馬・車輪・言語』に記述がありますが、こんな風に海が出現してしまったら、それも2000年の間続いたのでしたら、人の行き来はほとんどできなくなって、文化は分断されてしまうでしょう。
ちょうど、日本のフォッサマグナが日本の東と西の文化を分けてきましたが、それよりもはるかに大きな分断です。
そしてさらに水の流れは増していきます。
こうして、低いところを求めて水が流れ込んでゆく様子は、日本のあちこちに残る蹴裂伝説を思い出します。
ああ、なんということなんでしょう!
ということは、この時期、いっとき、現在のヨーロッパが一つの島(陸地)になっていたということではないですか!
つまり、カスピ海が内海のフヴァリニア海となって、それが黒海と繋がった時期、ヨーロッパは一つの独立(孤立)した大陸のような状態だったとしたら。
もしそうだったとしたら、その記憶はヨーロッパの人々の古層に残っているはず。
そう考えると、ヨーロッパがその後の歴史の中で、一つになろうとしたり分裂したりを、波のように繰り返しているわけがわかるような気がします。
そして、こうしてみると海進後のヨーロッパは、湿地の多い場所だったのかもしれなくて、そんなところも縄文時代の日本の様子と似ている気がするのです。
そして気になるのが、ヨーロッパでは、こうした環境の「不安定さ」が、その後のこの地の文化を形成した根本的な要因になっているということ。
「不安定さ」というのは、具体的にどんな状況なのでしょう。
そしてそれが一体なにをもたらしていたのでしょう。
環境の「不安定さ」は「葦原中国」と呼ばれた古代の日本の地理的な状況と似ているような気がするのですが、こんなにも違う文化を辿ってきたことも、とても興味が湧きます。
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印欧祖語が出現したのが前3500-3000年ごろのこと。馬も車輪も印欧語もまだ持ち込まれていなかった頃のヨーロッパの姿。
それがもしかしたら、妖精たちがすぐ近くにいる世界だったのかも。
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