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太陽が踵を返した日

昨日は冬至。
「冬に至る」と書くのですね。
太陽が一番遠ざかる冬の極みに至って、180度の方向転換。
「踵(きびす)を返す」とは踵(かかと)の向きをひっくり返すこと。

そう思うせいか、今朝の太陽はなんだか勢いがありました。
何かが変わってる。
ほんのほんのわずかの変化だと思うけれど、北陸の大雪のニュースが入ってくる中、太陽はもう冬には向いていない。

生き物も企業も世界も、大きなものになればなるほどベクトルの向きが変わっても、本体自身に目に見えて変化が現れるのには、タイムラグがあるので、すでに向きが変わっていることに気がつきにくい。


踵が左を向いても、身体はまだ右を向いているので、変化しだした時はとてもしんどい。
冬至のあとのほうが、寒かったり大雪が降るのもそんなことかもしれないのです。


昨夜は珍しくテレビをつけたままにしていたので、NHKの「スイッチインタビュー」でヤマザキマリとファビオ・ルイージ(NHK交響楽団 首席指揮者)が話をしているのを聞きました。


それで今朝は、昨日テレビで聞いたことと冬至のことを一緒につらつら考えてて、なんだか書きたくなったのです。


今は「変化の時代」といわれます。

21世紀の初め頃から、おそらく世界(今を生きる人々の意識)の深層は「多様性・複雑性」を再び呼び起こす方向に向かいだしているけれど、でもまだ今は「本体」の大部分が旧のまま。


二方向の力を受けて、体がよじれて、鳴門の渦潮みたいにぐるぐるしてる。
このベクトルが合体して新たな形として落ち着くまでには時間がかかると思う。

だから、しんどいんです。

いろいろ、あちこち、矛盾も起きるし、ついつい慣れた今までの方がいい、とかとも思ってしまう。


番組では、ファビオ・ルイージが「妥協するから周りも自分も自由でいられる」と話してて、それを受けて、ヤマザキマリが古代ローマの慣用句の「クレメンティア」を紹介していていました。クレメンティアとは「寛容」という意味だそうです。そういえば、古代ローマは多様性を受け入れる社会でした。

ということは、こういうこと。

妥協 → 自由
妥協 ≒ 寛容

寛容 → 自由


寛容と自由が関係するのか。。

これまでよく耳にしていたのは「自由は権利であって、その権利を得るための義務を果たさなくてはいけない」ということでした。今の学校や企業や国などの組織の規則(憲法・法律)の規範となっていることです。


それとは、全く違う角度からの「自由」へのアプローチ。


他者への「寛容」、集団間での「妥協」。

これがあることで、互いに「自らが自らでいる(自由)」と感じられることにつながるんだと、今朝、改めて発見しました。

寛容には「容」という言葉があるけど、互いに我(が)を減らして、他者を受け入れる余白をつくることなのかもしれない。


たぶんそれは、社会的には権利と義務という面からの「自由」と合体した形になっていくのだと思うのですが、まだ「権利と義務」的な世界が肥大しきっているので、それとは折り合いつけつつ、身の回りは「寛容」をベースにしたいなと思いました。


太陽はもう踵を返してるのだから。







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