イザナギとイザナミの海(1) ー 記紀の大阪湾
ブルーノ・ムナーリによると人の記憶の領域には3つあるそうです。
3つとは、「短期記憶の領域」「長期記憶の領域」「遺伝的記憶の領域」。
短期記憶では、ある瞬間に有効でもその後では役に立たなくなる事項を記憶します。例えば今日乗る電車の時刻とか。
2つ目の長期記憶の領域は、よりよく生活したり、何かをしたり、コミュニケーションをとったり、計画を立てたりするのに役立つすべての知識、つまり現在役に立ち、その後もずっと役立つすべての事項を保持します。
最後の遺伝的記憶の領域では、個から個へ、親から子へと伝達されるすべての情報が蓄積されます。
と「思考は考え、想像力は視る」というタイトルのところに書いてありました。
『ファンタジア』Fantasia
ブルーノ・ムナーリ Bruno Munari
先週と先々週の2週にわたって放送されたNHKの『ブラタモリ』は淡路島だったのですが、この淡路島のことを思うと、この3番目の遺伝的記憶の領域が古代の人の中に躍動していたことを思わずにはいられなくなりました。
学校とか勉強とか仕事の技を覚えるとか、そんなことが全くなかった、つまり2番目の記憶領域にそれほど保存しなくてもよかった頃は、遺伝的記憶の領域へのアクセスは、いまよりずっと容易だったのかもしれない。そしてきっとそれは、今の私たちの記憶の古層にもあることなのだと思います。ただ、取り出しにくくなっているだけかも。
番組によると、淡路島は地球の地殻の動きをうけて東西から圧縮され、南からも押されることで今の三角形の島の姿になりました。日本列島を東西に走る中央構造線のちょうど北に位置していて、兵庫県の東と大阪とともに大阪湾を囲んでいます。古来より大阪の海は、茅渟(ちぬ)の海ともいわれてきました。
淡路島から見る海の朝日は、真っ白な光の世界に全てが覆われて神々しく、四天王寺の西門から見る難波の海の夕日は、日想観の西国浄土を描きます。北側の宝塚や川西の台地には弥生時代の遺跡もあって、今も高台からはのんびりとした大阪湾の姿が遠望できるのです。
こんな風に大阪の海を眺めていると、大和といわれた奈良盆地に、天磐船に乗って饒速日(にぎはやひ)が北西から飛んできたり、八咫烏に導かれて磐余彦(いわれひこ)が南東からやって来る前の長いことずっと、ここには海と仲良くしていた人々が生きていたんだなぁと思います。だけど歴史としてはもう、はっきりとは語られない。
ただ一つだけ「もしかしたら」と思う記述があります。
記紀(『古事記』と『日本書紀』)の中で、イザナミとイザナギが自分たちの国生みの場所として最初に雫をおとした「おのころ島」が淡路島の南にちょこんとあります。沼島(ぬしま)と呼ばれる小さな島です。番組で淡路島の方が語ってくださったことによると、中央構造線の南にある沼島の地層は1億年前で、北の淡路島や大阪のほうは8000万年前の地層だということがわかっているそうです。
「国生み」で最初に産んだ淡路島よりもおのころ島(沼島)のほうが2000万年に相当するような遠い遠い昔だということを、古代の人はちゃんと知っていた気がする。私たちにはもうわからない方法で、なにかに気がついて、わかっていたのでしょうね。それにしても古事記で数行の話の時間がとてつもなく長い。
でも実は、淡路島の前にイザナミは子を生んでいます。(でもなぜか、この子たちは正式な子としては数えられていないのです)
「おのころ島」でイザナミは最初に「水蛭子(ひるこ)」を生みました。この子は葦舟に乗せて流されました。2番目の子は「淡島(あはしま)」で、この子も流されました。
この流されてしまった二人の子は茅渟の海のまわりに祀られています。
1番目に生まれた水蛭子(ひるこ)は「エビス」となって西宮戎神社や今宮戎神社に、2番目の淡島(あはしま)は淡嶋神社に。
そして「ひるこ神社」という名の神社が和歌山の沿岸(中央構造線の南側)にたくさんあります。創建はいろいろですが、古来より海に生きた人々に篤く信仰されてきました。
「和歌山県 ひるこ神社」で Google検索
こうしてみると、中央構造線の南の太平洋側にある「おのころ島」で最初に生まれた水蛭子は外海の方へ流れ、淡島は中央構造線を超えて少し大阪湾の入り口あたりへ流れ、そのあとヒルコはエビスとなって大阪湾にうつり、大阪の海の海人たちの信仰をあつめていったのかもしれません。
因みに、西宮戎神社はもともと西宮の廣田神社の境外摂社ですが、大阪の今宮戎神社のすぐ北にも廣田神社があって、どちらの廣田神社にも天照大神の荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまのあまさかるむかつひめ))が祀られています。
*
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?