『死んでしまうとは、情けない』

夜のニュース番組。会社でのストレスに耐えきれず、会社員が自殺してしまったというニュースが流れている。


 年齢は25歳。人生まだまだこれから、という時ではないか。死んでしまうなどもったいない。


 そもそも、最近の若者は忍耐力に欠けている。怒られたら辞める。失敗したら辞める。飽きたから辞める。挙げだすとキリがない。


 そういう俺も、いわゆる「ゆとり世代」である。この世代の人間はとにかく、忍耐力に欠けているとか、ストレスに弱いとか、色々と指摘されることが多い。


 しかし、俺は違う。何度怒られても、何度失敗しても、どんなに仕事が楽しくなくても、もうかれこれ10年同じ会社に勤めている。


 要は、気持ちの持ちようなのだ。辛いと思うから辛い。つまらないと思うからつまらない。できないと思うからできない。全部気持ちの問題。


 時折、「死ぬ気でやれ、死なないから」なんて言葉を見聞きする。本当に死ぬつもりでやる必要はない。ただ、そのつもりの意気込みでやれということである。死ぬ気でやると、世界が変わって見えてくるのだ。


 若者は、会社でのストレスで死んでしまった。なにも死ぬことはなかったのに。死ぬまで、やる必要はなかったのに。様々な選択肢の中から、わざわざ死ぬことを選ぶ必要はなかっただろうに。


 会社のストレスなんぞで死ぬ必要はない。そんな奴はどこにいっても結局同じ運命を辿るであろう。


「死んでしまうとは、情けない」


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 会社で同僚から聞いた。社長の奥さんが死んでしまったと。


 うちの会社は健康にまつわる商品を取り扱っている。いわゆる「健康オタク」である社長が立ち上げた会社で、健康食品や健康グッズの販売、健康に関する情報の発信、健康に関するイベントの主催などを行っている。


 社長の健康オタクぶりは並大抵ではなかった。健康に関する研究を自ら行い、健康に関する最新のニュースには常にアンテナを張っていた。自分で試せるものは積極的に取り入れ、必要であれば日本全国どこでも駆け付けていた。


 そんな超健康オタクの社長のことである。人生の伴侶もまた、健康オタクであった。社長の奥さんも健康には目がなく、体に良いと分かれば何でも試し、取り入れていた。


 そんな社長の奥さんが死んでしまったのである。健康に人一倍気を遣っていたのに、だ。原因はくも膜下出血だったという。


 どんなに健康に気を遣っていたとしても、全く健康に気を遣っていない人よりも早く死ぬことなどザラにある。人はどうせ死ぬのだから、健康に気を遣って我慢するよりも、多少身体に悪くても好きなことをしたり好きなものを食べたほうが良いと考える者もいる。結局人はいつ死ぬかなんて分からないのだ。


 だから俺は、健康には最低限だけ気を遣うようにして、あとは極力自由に生きている。我慢するのは苦手だ。


 健康に気を遣っていても、こんなにもあっさりと人は死ぬものなのだと、今回改めて気付かされた。健康に費やす時間など、最終的にいつか死んでしまう人間にとっては無駄なのだ。


「死んでしまうとは、情けない」


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 街を歩いていると、なにやら人だかりが出来ていた。パトカーや救急車といった緊急車両のランプがチカチカしている。何かあったのだろうか。


 人だかりに近づき、話を交わす人々にこっそりと耳を澄ましてみる。


「刃物を持った人が暴れてたから、それを止めようとして刺されちゃったみたいよ」


「屈強そうな人だったのに、可哀想ねぇ……」


「犯人はまだ捕まってないみたいよ、怖いわねぇ」


 どうやら、刃物を持った不審者が現れ、暴れているのを止めようとした者が刺されてしまったみたいだ。


 規制線が貼られた向こう側を見ると、血痕があちこちに付いていた。揉み合ったのだろうか。


 帰宅したあとにテレビを付けると、流れていたニュース番組で、日中に遭遇した殺傷事件のニュースが伝えられていた。


 残念ながら、刺された者は死んでしまったとのことだった。盗み聞きした会話を思い出す。刺されてしまった者は屈強そうな人物だったらしい。


 いくら身体を鍛えたところで、刃物で刺されてしまってはひとたまりもない。どんなに身体が強かろうが、全く関係ないのである。


 そもそも、不審者とは関わらないのが一番である。向こうは頭がおかしいのだから、何をしてくるかわからない。取り押さえようなんて以ての外だ。


 その人物は正義感から、不審者を取り押さえようとしてくれたのであろう。しかし、自分が死んでしまっては元も子もない。結局、自分の身を守るのが一番優先すべきことなのである。人のために死ぬなど、愚の骨頂でしかない。


「死んでしまうとは、情けない」


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 会社の社長が、死んでしまった。


 奥さんが亡くなったあと、見てて気の毒なほど元気が無くなっていたのには気付いていた。しかし、まさか死んでしまうとは。


 社長と奥さんは、自他ともに認めるおしどり夫婦だった。休みの日は一緒にスポーツや山登りなどに勤しみ、しょっちゅう二人で旅行に行ってはお土産を頂いていた。


 相当寂しかったのであろう。俗に、旦那は奥さんよりも、パートナーが亡くなったあとの生活への影響が大きいという。おそらく社長の場合も例外ではなかった。社長という立場ゆえ、奥さんの死をゆっくりと弔う時間も余裕もない。喪失感は相当なものだったのであろう。


 しかし、やはりそれでも死んでしまうのはどうなのか。生前、奥さん以外に全く話し相手がいないというなら話は別だが、一応社長という立場である。話を聞いてくれる従業員くらいいるだろう。また、子供も複数人いると聞く。全く一人ではなかったはずだ。厳しい言い方になるが、従業員を束ねる社長が奥さんの死から全く立ち直れずにいるのは、果たしてどうなのだろうか。


 人はいつか死ぬように、自分の大切な人もまた、いつか死んでしまうのだ。悲しみに暮れるのも理解できる。しかし、いつかは立ち直り、また歩いていかなくてはならないのだ。それを、あろうことか一企業の社長が出来ないとは。


「死んでしまうとは、情けない」


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 とある日の休日。奥さんと久しぶりにデートをするため、街へ繰り出した。普段の休日は家にいることが多かったが、たまにはこうして外出するのも悪くない。


 ソフトクリーム食べよう、と奥さんが誘ってくる。二人して甘いもの好きであり、特にアイスクリームの類には目がなかった。すぐに賛成すると、先に奥さんが駆け出す。ソフトクリーム屋がある場所まで。


 その時だった。少し遠くから奇声のようなものを上げながら走ってくる者がいた。こっちに来る。


 信じられない光景を目にした。その不審者は、俺より先にアイスクリーム屋へ駆け出していた奥さんにぶつかると、身体をバタバタさせながら、さらに大きく奇声を上げていた。手には刃先が赤くなった刃物を持っていた。


 一瞬何が起きたか分からなかった。しかし、次の瞬間には、俺はとっさにその不審者を奥さんから引き剥がすべく駆け出していた。


 不審者とは関わらないのが一番である。向こうは頭がおかしいのだから、何をしてくるかわからない。取り押さえようなんて以ての外だ。


 自分の大切な人間が襲われているとき以外は。


 我を失い、無我夢中になって不審者を引き剥がす。離れろ、離れろ、離れろ、離れろ!__。


 その後のことはよく覚えていない。気が付けば病院にいた。目の前には白い布を顔にまとった奥さんの姿があった。


 奥さんを殺した不審者は、以前ニュースで観た殺傷事件の犯人であった。


 その時に取り押さえようとした、屈強そうだったらしい人物のことを思い出す。彼もこうして、誰かを守ろうとしていたのだろうか。


 奥さんの亡骸を見つめる。


「死んでしまうとは……。死んでしまうとは……」


 ※


 仕事中、一本の電話がかかってきた。番号は非通知。普段なら無視するところであったが、奥さんが亡くなってまだ間もない。なんとなく、嫌な予感がした。


 息子が死んでしまった。会社でのストレスに耐えきれず、自殺してしまったのだ。


 息子の自宅からは遺書が見つかった。理不尽に何度も怒られ、それを恐れてかえって失敗を重ね、最初は好きだった仕事が嫌いになったという。上司からは毎日のように「死ぬ気でやれ」と言われていたそうだ。実際、死ぬ気で仕事に励んでいたという。その結果、死んでしまったのだ。


 死ぬことはなかったのに。死ぬまで、やる必要はなかったのに。様々な選択肢の中から、わざわざ死ぬことを選ぶ必要はなかっただろうに。


 以前ニュースで観た、息子と同じように会社のストレスで自殺してしまった若者を思い出した。


 その選択肢が極端に少なかったのだろう。そうでなければ、死を選ぶなんてことは普通しない。


 気の持ちよう。気の持ちよう。


 昔から繰り返し口にしていた言葉を言ってみる。今はもう、それは妄言でしかなかった。


「死んでしまうとは……。死んでしまうとは……」


 ※


 妻と息子が死んでしまい、俺は自分でも分かるほど痩せこけていった。


 さらに、会社の健康診断で癌が見つかった。不摂生な日々を送っていた俺は、数年前からいつ病気になってもおかしくはない、と医者から通告されていた。しかし、言われても言われても一向に病気はおろか風邪にすらかからなかったため、やはり健康に気を遣って我慢するより、自分やりたいことをやり、好きなものを食べたり飲んだりする方が結局は健康に良い、と思いこんでいた。


 しかし、ついにその時がきてしまったのだ。


 連日の体調不良は、妻と息子を亡くした喪失感からきているものだと思っていた。事実、その部分も少なからず関係はしていたようだが、実際には癌による体調不良だったようだ。


 今になって思う。もう少し、もう少しだけ、健康に気を遣えばよかったと。


 社長の奥さんを思い出す。今思えば、二人して好きなことをやれていたのは、健康あってこそだったのかもしれない。


 奥さんが毎回忠告してくれていたのを思い出す。お互い長生きして、一日でも長く一緒にいようよと。皮肉な結果にはなるけど、もうすぐ俺もそっちに行くだろう。そこで一緒にいようと言えば、流石に怒られるであろうか。


 結局俺は、奥さんや息子が亡くなった喪失感から立ち直ることは出来なかった。社長の苦しみや悲しみが、今になってよく分かる。立ち直るとか、また歩き出すとか、そういう次元ではなかった。


 人はいつか死ぬ。基本的に死の方法を選ぶことはできない。穏やかに死んでいく者もいれば、俺みたいに憐れに死んでいく者もいる。


 人が死ぬことは、決して情けなくはなかった。今ならそう思える。誰かのために生き、誰かに愛されながら死んでいく。結局、幸せな人生はこうあるべきなのではないか。


 その一方で、俺は幸せだったのだろうか。人の死を情けないと思い、挙げ句、憐れに死んでいく。少なくとも、余命幾ばくもない俺が、死んだあとの自分に言えるのはこれしかないだろう。


「死んでしまうとは、情けない」

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