有名税とストーカーおよび普通のオタク
「くぅー! やっぱり夕梨ちゃんは可愛いなぁー! 夕梨ちゃんがセンターの曲も最高だ!」
アイドルグループが群雄割拠する現代。おびただしい数のアイドルの中から、僕は夕梨ちゃんを見つけ出した。夕梨ちゃんこそ、現代最強のアイドルだ。
歌って踊る姿は、スマホの画面を通して観ても可愛い。ならば実物はどれだけ可愛いのだろうか……。
僕はいわゆる握手会とか、ライブなんかには一度も行ったことがない。地方住みだから物理的に行けないとか、経済的に行けないなどではない。
ただ勇気が出ないのだ。
だから僕は、グッズを買ったり、スマホでライブ動画を視聴したり、SNSでの発言にコメントしたりして、間接的に応援する。僕はそれで十分なんだ。
夕梨ちゃん。僕がもっともっと応援して、もっともっと有名にしてあげるからね。
※
「今日も疲れたぁー。足パンパン。腰も痛ーい!誰かマッサージしてぇ」
「おつかれー。夕梨の列、今日も凄かったねぇ。過去最高じゃない?」
「腰ぶっ壊れるっつーの。なんでウチは椅子使えないのよ! 他のグループは使ってるところあるのに」
「本当よね。なんで「椅子に座ると印象が悪い」ってなんのよ。立ちっぱなしで疲れた顔見せる方がよっぽど印象悪いって話よね!」
「こんな日はさっさと帰って、お風呂入ってゆっくりしたいわ」
「でも夕梨、このあと一本仕事入ってるんでしょ? さっすが、人気メンバーは違うねぇ!」
「笑いたくもないのに笑顔を作るのがどれだけ大変か……。あー、お休みがほしいよー」
私は小さい時から、とにかく周りから「可愛いね」ともてはやされてきた。それは決して偽りではなく、実際に今所属しているアイドルグループのオーディションにはあっけなく合格することができたし、またほとんどの楽曲でセンターを務めている。
有名になりたい、という欲求は一応あった。ちやほやされるのも嫌いではない。有名になれば、今よりもっとちやほやされる。有名になれば、人生がもっと輝く。有名になるに越したことはない。
しかし、こんなにもあっさりとなれるなんて思ってもいなかった。仕事は決して楽ではないが、以前にも増してさらにちやほやされるようになった。
人生って、こんなにも簡単なものなのね。ちょっと拍子抜けしちゃったわ。
※
会いたい会いたい会いたい会いたい。夕梨、君に会いたい。二人きりで__。
俺と夕梨は小学校からの同級生だった。いまやトップアイドルの君は、小学生の頃から飛び抜けて可愛かった。男子なら全員、一度は好きになるような、そんな存在だった。
多分に漏れず、俺も君のことが好きだった。そして、今も。
俺は君に気持ちを伝えたくて、何度も何度も告白した。勇気を出して、何度も何度も。
それなのに、君は振り向いてはくれなかった。それどころか、途中から話すら聞いてくれなくなった。どうして? こんなにも好きなのに?
君のことをどんなに好きか、君に教えてあげたい。そうだな……。じゃあ手始めに、君から「貰った」この体操着。ずっとずっと大切に取ってあるよ。
※
今日も今日とて、夕梨ちゃんのSNSのアカウントにアクセスする。今日は自撮りの写真付きで、近況を発信していた。
「これから収録行ってきます!」
「今日はたしか握手会が行われてなかったっけ? その後に収録なんて、すごいなぁ」
夕梨ちゃんは頑張り屋だ。可愛いのに努力もしていて、本当にすごい。尊敬と応援の意味を込めて、当該発言に対してコメントする。
「収録頑張って! 夕梨ちゃんの頑張ってる姿を見て、いつも励まされてるよ! ありがとう!」
コメントを打ち終わると、他の人のコメントを読む。同じアイドルを応援している、いわば「同志」である。その人たちのコメントを見るのも、楽しみの一つだった。
しかし、最近少し気になっていることがあった。
たくさんのファンが付いているということは、それ相応の「アンチ」がいるもの。普段は気にならなかったが、最近はある特定の人物のコメントが妙に引っかかるようになった。
今日もその人のコメントを見つける。
「夕梨、すぐ会いに行くからね」
「……まただ。またこの人だ。毎回会いたいとか、会いに行くからとかコメントしてるけど、こんなコメントしても会えるわけ無いじゃんか……」
※
「お疲れ様でしたーっ」
やっと収録が終わった。
握手会でエネルギーを使うからと、今日はやや多めにご飯を食べたというのに、そんな日の収録に限って試食することが多かった。一応最後までアイドルスマイルは維持しつつ、スタジオに出てきたカレーをチビチビと口に運んだ。たしかに味は美味しかったが、せめてお腹が空いているときに食べたかった……。
時刻はもうすぐ23時を回っていた。せめて、日付が変わるまでには帰りたい。帰ってお風呂に入りたい……。
「ピロピロピン、ピロピロピン」
楽屋に戻って帰り支度をしていると、スマホの着信音が鳴った。こんな時間に電話をかけてくる相手は、一人しかいない。
「もしもし、優弥? どうしたの?」
電話の相手は、交際中の彼氏だった。今から迎えに来てくれるのだそう。疲れているので、助かった。
アイドルグループというのは、特に法律で禁止されているわけでもないのに、基本的に「恋愛禁止」である。ファンの夢を壊さないように、だそう。
しかし、アイドルも一人間である。思春期の子だって少なくはない。一般の人なら学校に行き、自由に恋愛し、青春を味わい尽くすだろう。
一方で、私たちアイドルは、可愛い衣装を着て恋愛ソングを歌う。自分たちは恋愛禁止であるのに、である。お腹がぺこぺこなのに、自分が食べる用ではないご馳走を作らされているような感覚。
さらに、恋愛禁止にくわえて、毎日のようにアンチから誹謗中傷や嫌がらせをくらう。整形したんだろ? とか、枕営業してんだろ? とか。最近では頻繁に「会いたい」と言ってくる人もいる。
ゴシップ記事を狙って、毎日のように写真を撮られたりもする。恋愛禁止を犯している私も悪い部分はあるが、それでもプライベートをパシャパシャと撮られ、覗かれて良い気持ちがするはずがない。
世間ではこれらを「有名税」というらしい。とんでもない。人の権利を、プライバシーをなんだと思っているのか。アイドルだって大口開けて好きなもの食べたいし、人に言いにくい趣味に没頭したいし、恋愛だってしたい。
結局、バレなければいいのだ。バレなければ。
彼氏が迎えに来るということで、ゴシップ記事を狙う記者にそこを撮られることは避けなければならない。
それは彼氏も重々承知している。見渡しても誰もいない、人気の極めて少ない所に車を持ってきてくれた。
「ありがとう! ちょー助かる!」
素早く車に乗り込む。この行為も慣れたもので、同様に彼氏も素早く車を走らせる。助手席から辺りを見渡す。
今回もいつものように上手くいった。はずだった。
真っ暗闇を照らすのは車のフロントライト。そして、遠くでピカッと何かが光るのを確認してしまったのだ。
※
夕梨……、なんで……、なんで……。
スマホの画面に映るニュースサイトには、今日のニュースがずらりと並んでいる。その中でもとりわけ大きなニュースは、写真付きで大きな見出しが付けられている。
今日は、特に衝撃的なニュースが世間を騒がせていた。
「トップアイドルの熱愛発覚! お相手は男性アイドルグループのイケメンK!」
信じられなかった。君は俺のものになるはずだったから。他の男と交際するなんて、絶対に許されるはずがなかった。それなのに、それなのに……。
夕梨が使っていたプラスチックのスプーンで、ご飯を食べようとしていたところであった。そこに、特大すぎる今日のニュースが目に飛び込んできたのだ。もはやご飯など食べている場合ではない。
今まではなんとか理性を保ち、自分を抑えることができていた。しかし、今回ばかりは無理であった。理性でなんとかなる話ではない。
……君がいけないんだ。俺が分からせてあげる。
だって、君のことを一番愛しているのは俺なんだから……。
今すぐ会いに行くよ。君の間違いを正すために。君を俺のものにするために。
スタンガン、タオル、ガムテープ……。
必要なものはすべてバッグに入れた。あとは実行に移すのみだ。
※
「信じられない……。夕梨ちゃんがそんなことをするわけがないんだ……。夕梨ちゃんはトップアイドルなんだぞ? 僕たちファンを悲しませるようなことなんて、するわけがないじゃないか……」
トップアイドルが熱愛という、間違いなく今日の中で、いや、最近のニュースの中でも衝撃のニュース。
でも、僕は信じない。信じられるわけがない。
グッズもたくさん買った。行きもしない握手会の参加券が入ったCDも買った。ライブ配信を特等席で観るための課金もした。たくさん、たくさん応援した。そして、これからも応援する。
夕梨ちゃんのSNSのアカウントを開く。案の定、最新の発信に対するコメント欄は、誹謗中傷の嵐であった。
「裏切り者」「汚れたアイドル」「スキャンダル女」……。
もうやめてくれ。夕梨ちゃんはきっと、今すごく苦しんでいるはず。週刊誌のゴシップ記事なんてデタラメばっかりだ。今回もそうに違いない。
アイドルは天使なんだ。アイドルはそこらへんの人と違って下品に大口開けて物を食べないし、人に言いにくい趣味なんて絶対しない。まして、恋愛なんて絶対にしない。
事実じゃないことで叩くのはもうやめてくれ! 苦しいときこそ支えるのがファンではないのか……?
ふと、誹謗中傷や嫌がらせのコメントの中に、最近気になっている「例の人」が残したコメントを確認できた。
「今日、君に会いに行くよ。夜の更ける頃。待っててね。迎えに行くからね」
なぜだろう。理由はわからない。
わからないが、今日だけは看過してはいけない気がした。夕梨ちゃんが危ない。そんな気がした。もし違えば、それに越したことはない。しかし、見逃したことで、夕梨ちゃんが危ない目にあったら?
夕梨ちゃんのSNSによれば、今日もテレビの収録が入っているらしい。仮にそれが夜遅くまで続けば、特に帰り道は危ない。メンタルも弱っているだろうから、警戒心も薄れているはず。
……これは僕が助けなければ。
※
「やっちゃったなぁ……」
「バカだなぁ夕梨は! もっと警戒して付き合わなきゃ!」
「笑い事じゃないよ! おかげで今日の収録以降、しばらく謹慎処分になったんだから……」
「ま、しばらく大人しくしとけば、勝手にほとぼりも覚めるって。ところで、夕梨の謝罪配信、超面白かったよ! 神妙な顔してさー!」
「あ! あれ上手だったでしょ? ちょっと悲しい顔しとけば、ファンなんてすぐ同情するんだから。所詮金を落としてくれる都合の良い奴隷みたいなもんだからね」
「言うねー! 全然反省してないじゃん、ウケるー!」
「こんぐらい割り切らないと、アイドルなんてやっていけないって! んじゃ、私はしばらく家にこもるわ。飽きたら変装でもなんでもして、適当にどっか遊びにでも出かけようかな」
「でも、気を付けてね。最近、過熱したファンが暴走するってニュース、たまに聞くからさ。夕梨ほどの女が街にいたら、寄ってくるだろうし」
「大丈夫大丈夫! 可愛い顔して愛嬌振りまいとけば、大抵の人は騙せるからさ」
写真を撮られたのは、完全に私の油断が招いたことである。今回もきっとバレないだろうと高を括っていた。脇が甘かったか。
まぁ、しばらくは仕事が休みになるし、彼氏に別に部屋を借りてもらえばいつでも会えるからいっか。地獄のような握手会も、しばらくはやんなくていいし。
そう考えると、スキャンダルって案外いいかも!
テレビ局を出た私は、うーんと背伸びをする。
「このテレビ局も、しばらくは来なくていいのか。家から遠いんだよね、ここ。おまけに、今日みたいに遅くなると、人気も無くなって少し怖いし。昨日の今日だから、さすがに彼氏も迎えに来てくれないか……。仕方ない、大通りまで歩いてタクシー捕まえるか」
その時、私に近付いてくる足音がした。見渡しても、周りにいる人は確認できない。その足音が近づいてくるのが分かる。もう一度辺りを見渡す。すると、暗さに慣れてきた目が、より黒の深い人影を捉えることができた。近付いてくる。
本能が私を警告してくる。逃げなきゃ……!
※
夕梨、夕梨、夕梨、夕梨、夕梨、夕梨!
テレビ局から出てきた夕梨の姿を見ると、とたんに身体が熱く熱を帯びるのを確認できた。
テレビ局のスタッフとしてスタジオで見る君もいいけど、やっぱり素の君が一番可愛いよ……。
今はこの空間に二人だけ。周りを見渡しても、おそらく今この瞬間は誰もいない。いつもテレビ局の出入り口に立っている警備員は、建物の中に入っていた。
夕梨を拉致する。そんな男とはもう二度と会えないように。
スタンガンで気絶させ、物陰に引き摺り込む。身体を折りたたんでガムテープで縛り上げ、タオルで猿轡を噛ませキャリーケースに詰め込む。華奢な君のことだから、容易に入るだろう。タクシーを指定の時間に呼んでいるから、やってきたタクシーのトランクに入れて運ぶ。
もうすぐ……もうすぐ君は俺のものだ……。
※
僕は芸能人でもなければ、テレビに出ているタレントでもない。だから、テレビの収録がいつ始まって、いつ終わるのかなんて分からない。
でも、今たしかにこのテレビ局にいるのはたしかだ。終わって出てくるまで待とう。僕が守る。僕が夕梨ちゃんを守るんだ。
裏口から出てくる可能性もあったが、その場合でも、たとえばタクシーを捕まえるために大きい通りに出る際の道はここしかない。つまり、ここを見張っておけば夕梨ちゃんを守ることができる。
それから数時間。時折通り過ぎる人の数も、夜が更けるにつれて少なくなる。テレビ局の建物自体はキラキラとした光に包まれているが、対象的にその周りは薄暗い。こんなところを、あんな可愛い女の子が一人で歩くのは非常に危険だ。
その時、テレビ局の正面の出入り口から、一人の女性が出てきた。先程まで通り過ぎていた人々とはまた一段とオーラが違う、なにかこう光り輝くような女性。
紛れもない、夕梨ちゃんだ。
画面越しなどではない、初めて生で見る夕梨ちゃんは、形容し難い可愛さがあった。
うーん、と背伸びをしている。その仕草さえ可愛い。でも、今はきっとメンタルがやられてるんだよね。大丈夫。不審者が現れても、僕が守るからね!
歩き出した方向から推測するに、大通りへと向かっているだろう。タクシーでも捕まえるのだろうか。タクシーさえ捕まれば、あとは帰宅するだけ。なんとかそこまで守りきれれば……。
突然、夕梨ちゃんが走り出した。後ろの方をちらちらと確認している。僕は慌てて夕梨ちゃんの見る方向に視線を向ける。
視線の先には、薄暗さの闇よりも黒い、大きな影のようなものが、夕梨ちゃんに接近しているのが確認できた。
そこからはもう、考えるより先に身体が動いていた。きっとあいつだ。SNSで嫌がらせをしている張本人は……!
※
影が迫ってくる。怖くて声が出ない。とにかく走るんだ。動け。動け、私の足……!
あと少し走れば大通りにぶつかるはず。あと少し、あと少し……。光が見えてきた。とりあえず、大通りにぶつかれば、誰かが助けてくれるはず。
その時、私の両足の感覚が一瞬だけ無くなった感覚があった。と同時に、私の身体が宙を舞う。そして、鈍い痛みとともに地面に叩きつけられた。
足がもつれてしまったのだ。よりにもよって、こんな時に。大通りはもう少し先。あいも変わらず周りには人気がない。影が迫ってくる。あまりの恐怖に、ほんの一瞬お腹に力が入るのが分かった。
「……た、たすけてーっ!!」
声が出た。やっと。自分の声が、閉じきった喉を突き破り、静寂な空気を大げさに震わせた。
「誰かに追われてるの!! たすけてーっ!!」
穏やかに眠っていたような空気が、一瞬にして大きな波風を立てるように震える。その異常さを感じ取った人々が、何事かとこっちへ駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか!」
「どうかなさいましたか!」
「誰かに追われてるんですか!」
……自分が可愛い女で良かった。たとえ私のことをアイドルだって知らなくても、こうして男たちが駆け寄ってくるんだもの。あーあ。私ってつくづく、罪な女だわ。
あの人の処分、あとはこの人たちに頼んどくか。
私の声にびっくりしたのか、私を追ってきていた影が慌てて引き返そうとしているのが見えた。気のせいか、影が2つに見えなくもなかったが、結局薄暗くてよく分からなかった。
「あ、あそこに……! ねぇお願い……。放っておくとまた別の日に襲われるかもしれないから、どなたか捕まえて警察に突き出してくれるかしら……?」
「あそこか! 不届き者め!」
複数人が一斉にその影に襲いかかる。
「おら! 観念しろ!」
「ち、違うんだ! ただ、彼女のこと……」
「警察行くぞほら!」
取り押さえられた人物は、抵抗しながら何やらブツブツ言っていたが、私にこんな恐怖を体験させる奴なんて警察に捕まればいいのよ。
それがたとえファンでもね。
ファンはファンらしく、私がもっと有名になるために貢げばいいのよ。その代わり、テレビや動画サイトなんかで、歌いたくもない歌を歌い、踊りたくもない踊りを踊ってあげるから。ま、これも一種の「有名税」ね。あー、有名になるって大変だわー。
「怪我はないですか?」
不審者を取り押さえようとしてくれていた人のうちの一人が、心配して声をかけてくれた。不審者を追ってくれていたのか、服に草や泥が付いていた。私を心配して戻ってきてくれたのか。他の人たちを見ると、例の不審者を大通りまで引っ張って行ってくれていた。
「あ、はいありがとうございます! ちょっとだけ足をひねったみたいだけど、たぶん大丈夫です!」
「それなら良かったです。実はさっき、あの不審者を追っている最中にちょっとメガネを落としてしまいまして……」
「それは大変だわ。きっとそんな遠くには落ちてないはずだから、すぐに見つかると思うけど……」
「おそらく、そこの茂みに落ちたと思うんですが、薄暗い上によく見えないので、ちょっと覗いてもらえますか?」
ちっ、面倒なやつだな。まぁ、助けてくれたのは事実なんだし、適当に覗いてすぐに退散するか。
「分かりました、そこの茂みですね」
道から少し外れた脇の方に生えている、私くらいの背丈の茂みに近づき、適当にかき分けて探すふりをする。
「えーっと、メガネらしきものは……」
「バリバリバリッ、バチッ!」
「えっ……?」
首元に強い衝撃を感じたあと、私の視界は真っ暗になった。
※
もうすぐ、もうすぐ夕梨は俺のもの……。
逃げても無駄だよ。もう君は俺のものなのだから。さぁ、早く僕の手の中に……。
距離が詰まっていく。そんな靴じゃまともに走れないだろう。足が回らなくなっている。そしてとうとう、夕梨が派手に転んだ。チェックメイトだ。
……ところで、さっきから後ろから付いてきているのは誰だ? 明らかに俺を追うように走ってきてはいないか? こりゃやっかいだな。ここで夕梨を襲ったところで、そいつに通報されれば意味がない。かといって、今ここで夕梨を逃がせば、どうせまたあの男のところへ行くに違いない。それだけは絶対に防がなければ……。
突然、夕梨が叫びだした。たすけて。たしかにそう叫んでいる。これはまずい、まずいぞ。前も後ろもやっないなことになってしまった。このまま行くか、引き返すか……。
と、判断に迷いながら走っていると、持っていた空のキャリーケースのどこかが道路の脇の茂みに引っかかり、それに引っ張られたキャリーケースごと茂みに突っ込んでしまった。
終わった。夕梨を拉致するまたとないチャンスだったのに。仕方がない、また別の機会に……。
と思っていると、目の前で信じられないことが起きた。
さっきまで俺を追っていた謎の人物が取り押さえられている。
俺はといえば……、茂みがうまく身体を隠してくれているのか。バレていない。見つかっていない。
夕梨は? 夕梨はどうした?
取り押さえられて叫んでいる人物越しに、夕梨が座り込んでいた。叫びを聞きつけてやってきた3〜4人の人らは、謎の人物を取り押さえ、大通りの方へ引っ張って行っている。今この瞬間、夕梨は一人である。
これはチャンスではないか?
茂みにキャリーケースを起き、夕梨に近づいていく。
「怪我はないですか?」
「あ、はいありがとうございます! ちょっとだけ足をひねったみたいだけど、たぶん大丈夫です!」
辺りが薄暗いのもあったが、そもそも学生時代に眼中にすらなかった奴の顔なんて覚えていないのだろう。全く気付かれる気配はなかった。
「それなら良かったです。実はさっき、あの不審者を追っている最中にちょっとメガネを落としてしまいまして……」
「それは大変だわ。きっとそんな遠くには落ちてないはずだから、すぐに見つかると思うけど……」
「おそらく、そこの茂みに落ちたと思うんですが、薄暗い上によく見えないので、ちょっと覗いてもらえますか?」
俺は懐に忍ばせていたスタンガンの電源を入れる。
「えーっと、メガネらしきものは……」
俺は素早く、夕梨の首元にスタンガンを当てる。
「バリバリバリッ、バチッ!」
夕梨は驚いた声を短く発したが、ストンと落ちてしまった。遂に、遂にやった……!
茂みに隠れ、一旦周りを見渡す。人気はない。
夕梨をガムテープで縛り上げ、タオルで猿轡を噛ませたあと、キャリーケースに詰め込む。もうすぐタクシーが近くまで来るはずだ。
他の男と交際していた罰だよ。ちょっとお仕置きが必要だね。君は有名になりすぎた。多めに「有名税」を収めようね。
……これで君は、僕のもの。
※
夕梨ちゃんを追いかける怪しげな人物を、僕はひたすら追いかけた。勘が当たった。やはり、SNSに嫌がらせのコメントをした奴は、実際に犯行におよんだ。出来れば、こんな勘なんて当たらなければよかった。しかし、実際に起きてしまった。
今、夕梨ちゃんを守れるのはこの僕しかいない。必ず守るからね……!
その人物との距離が詰まっていく。よく見ると、その人物は大きいキャリーケースを抱えている。それを持って走っているということはきっと中身は空だろうが、それにしても凄い体力だ。もし仮に対峙したとき、勝てるのだろうか……。
その時、その人物越しに夕梨ちゃんを見ると、座り込んでしまっていた。転んでしまったのだろうか? このままでは捕まってしまう__。
次の瞬間、たすけて、という大きな声が聞こえた。紛れもない、夕梨ちゃんの声だった。
その声で、たまたま通りかかったであろう3人くらいの人が夕梨ちゃんの元へ駆け寄っていくのが分かった。
……おい、やめろ。夕梨ちゃんに近付くな。触れるな。話しかけるな。
夕梨ちゃんを助けるのは、僕なんだから。
一瞬の出来事だった。夕梨ちゃんに気を取られていると、追っていた怪しげな人物が、キャリーケースごと消えていた。あまりにも一瞬の出来事であったため、一瞬我を失う。あれ、あいつどこいった……?
「あそこか! 不届き者め!」
そう考えていると、さっきまで夕梨ちゃんの元へ駆け寄っていた人たちがこっちへ向かってくる。
そして、なぜか皆で僕を取り押さえてきた。
「おら! 観念しろ!」
「ち、違うんだ! 彼女のことを不審者から守ろうとして、その不審者を追ってただけなんだ!」
「警察行くぞほら!」
「痛たたたっ! 夕梨ちゃん! 夕梨ちゃん!!」
取り押さえられ、連行される際に夕梨ちゃんの方を見る。他の人と話しているのが見えた。
なんでこうなった? 僕はただ、夕梨ちゃんを守りたかっただけなのに?
連行されている間、ふと、これまでの日々を振り返った。
夕梨ちゃん。これまで僕が夕梨ちゃんにいくら貢いできたと思う? 稼ぎはあんまり良くないけどさ、最低限の生活費以外、ほとんど全て貢いできたつもりだよ。
熱愛のこと、事実じゃないもんね。たとえ皆が信じなくても、僕だけは信じてるからね。これからもずっとずっと、応援し続けるからね。
これから僕は警察に突き出されると思う。運が悪かったら少しの間拘束されちゃうかも。そうなったら少し待っててね。出てきたらまた、うんと応援するからね。
ずーっと、ずーっと応援してるからね。僕の応援が夕梨ちゃんの力になりますように。
僕の思いが、夕梨ちゃんに伝わりますように。
そして、いずれは、僕と一緒になろうね。