東日本大震災(2011.3.11)生生しい手記 前編
この記事を読んで下さった、そこのあなた。
ご縁あってお読み下さりありがとうございます。
ただ、この記事は東日本大震災の被災当日の様子をありのままお伝えしようと記事にしました。
センセーショナルな部分をかなり含みますので気持ちが整いましたら読んでください。
以下内容は、大学や某企業などの講演会にお招きしていただいた時のものを
一部抜粋して記載しております。ご興味あれば無料ですから講演参加もご検討下さい。(現在新型コロナにより講演活動停止中)
それでは。。。
震災の話をします。
2011年3月11日、当時のわたしは高校2年生、遅刻ばかりでおちこぼれでした。その日は珍しく、風邪をひいて学校を休んでいました。当時は大学生で離れたところに暮らす兄がいましたが、被災した家には父と私の2人暮らしでした。父はその日、自宅近くで仕事でしたが、一区切りつき、14時過ぎから昼食を食べに自宅に戻っていました。
そして14時46分。地震が起こります。
立っていられないほどの揺れは数分間続き、窓ガラスは割れ、このままだと家が倒壊して下敷きになってしまう。そう思い、外に飛び出しました。
この時観測された石巻市の震度は6強でした。
防災無線によるサイレンの鳴り響く中、避難を車で開始しました。近くに住む祖母が心配で祖母宅へ。祖母は避難済み。
結果として、この他人を心配する行動が自分たちの避難を遅くしてしまいました。5分ほど走り大きな通りに出ると、道路は避難者で大渋滞。信号も停電で機能しない。渋滞は全く動きません。
交差点のど真ん中で父の運転する自分の車は停車。そして数分すると、交差点の向こうからちょろちょろと黒い水が。わたしはこの重要なサインに気づかず「水道管の破裂か付近にあった水産加工場で使われている水が地震により漏れ出しているのだろう」と軽率に考えていました。
そして数十秒後、一般住宅の2階まであろうかという高さの津波が一気に押し寄せました。あまりに突然の出来事にこれが津波であるのかも、一瞬理解できませんでした。イメージを分かりやすく伝えるとすると、見上げるほどの黒に近い茶濁色の壁がすごい勢いで迫ってきた、とでもいいましょうか。防波堤が迫り来る、そんな感じにも近いかもしれません。そして私はそれが「津波である」と認識し、(津波が目の前に現れてから認識まで体感的に2、3秒)乗車していた車が波に飲まれ、エンジンが水没し、パワーウィンドウ(車の窓を開ける電子装置)が効かなくなったならこのまま車内で溺れ死ぬ!!!
と思い、「窓を開けて飛び込むぞ!!」と父に向かって叫び、自身も急いで窓を開け、その開口部から自ら濁流に飛び込みました。波に身を投じたはいいものの、這い上がって息をすることができない。信じられないほどの海水を飲みました。なんとか紙一重、呼吸を一口しては、波に飲まれてを繰り返していたのですが、途中、瓦礫とともに流れてきた車と瓦礫の間に体を挟まれ、抜け出せなくなり、大袈裟ではなく、さすがに死を覚悟しました。家族のこと、飼っていた犬のこと。友達のこと。そんなことを思い、そして最期の足掻きとしてわたしはわたしを挟んでいる目の前の車を全力で蹴っ張り押しました。
この記事を投稿できているということは、つまりそういうことで、見えざる神の手とでも言いましょうか。ヒト一匹の足掻きなど本来、津波に押され迫る車の力になど到底勝るわけもありませんが、このときわたしを押していた車は私を避けるようにx軸(横方向)にスライドするように動いた不思議な感覚を憶えています。
震災以前に亡くなっていた母が守ってくれた。今振り返ってみると、そう思わずにはいられません。
車は回避できたものの、そこからまた流されて、飲まれて、もがいては流されて。どれくらい時間が経ったでしょうか。わたしは瓦礫が流され堆積し、集合体となっているような島に辿りつきました。そこの瓦礫島に捕まっていれば流されることはなく(それでも勢いは凄まじいですが)少しばかりの安全は確保できました。
しかし次の問題として、寒さがありました。当時の気温は氷点下、雪も降っていた石巻。実際に、津波による圧迫や呼吸困難による窒息と同等もしくはそれ以上に、低体温症の発症で犠牲となった方はかなりの数いらっしゃいます。そこで当時のわたしは、このままではここにいても時間の問題で、夜が来たなら、たちまちに凍え死ぬだろうな。そう判断し、近くで凌げるところを探すことにしました。この段階では時間経過がどのくらいか分かりませんでしたが、波の状況は、流されつつもなんとか泳げるか?くらいの強さであり、日没前でした。わたしは瓦礫島に一緒に捕まっていた父に、「近くで凌げるところを見てくるから、ここで待っていてくれ。」と、伝えました。このとき、父は足を怪我してしまっていて、泳いで辺りを探索できるような状況でないと、当時の私は誤った判断をしてしまいました。(判断については後述します)
そしてしばらくの間、ほとんど波に流されながら泳ぎ、一般戸建て住宅が辛うじて形として残存している場所を発見。その家の一部分の押入れが波に浸かっていない箇所を見つけました。ここなら「波に自分たちの体が浸かっているより凌げるのではないか」と判断し、わたしはそこへ身を寄せることにしました。
一度状態を確認するのに押入れに入ってみて、強度的に問題がなかったので父のいる瓦礫の島に父を迎えに戻ろうと今まさに泳ぎ出す…。瞬間の出来事でした。落ち着きを見せ始めていた波の勢いは、息を吹き返したかのように、明らかに強さを取り戻し始めています。わたしはパニックでした。これが第二波なのではないか。一瞬そう考えましたが、先ほどとは違う波の立ち方を見て、なんとなくですが理解しました。それは引き波です。波は音を立てて目の前の瓦礫たちを流しはじめました。わたしはこの押入れから恐怖で出てゆく勇気がありませんでした。父が心配で焦る気持ちと恐怖が心の秤に架かり、恐怖が勝ってしまいました。
恐らく数十分が過ぎ去り、波が落ち着きを取り戻し始めた折、わたしは瓦礫島に戻ることにし、泳いで辿り着きました。
しかし、そこに父の姿はない。わたしは「おっとー!!(東北の方言で父を指す)」と何度か叫びました。するとはっきりとは聞き取れませんでしたが、「助けてくれ」と、微かに父の声はする。わたしは血眼になって瓦礫をひっくり返し探しましたが、探せど探せど姿が見えない。助けてくれという言葉は、父以外にも最初は何百もの声が聞こえました。報道のヘリが空中を飛び去る度、みな助けてくれと叫んでいた。しかし時間経過とともにその声は減っていき、日没にはまるで誰の声も聞こえなくなりました。わたしは絶望しました。人の声がすることで姿は見えないものの、なんとなく「ひとりじゃない、大丈夫だ。」と自分に言い聞かせ、捜索作業に徹していたのですが、いよいよ日没となり、わたしの「おっとー!居たら返事して!」と叫んだ声は深々と雪が降り続く誰も居ない瓦礫の中で空を切り、まるで津波が私だけをそこに残したかのように、途方もない孤独が襲い、父が見つからない絶望に追随の拍車を掛けました。そして身体的な活動限界もやってきました。自身の身にも命のシグナルを感じ始めていました。瓦礫と共に流されてたことで下半身から大量の出血があり(痛みは感じなかったです。寒すぎる?恐怖?)、加えて凍えて骨が軋み、骨同士が擦れるように痛む。満身創痍、ここにいてはいよいよ次は自分の番か。そう悟り、父を残し、ぐちゃぐちゃに泣き、わけのわからぬ言葉にもならない言葉を叫びながら瓦礫の島を離れることにしました。
そして先ほどの押入れが残存していた住宅から更に少し泳ぐと、今度は戸建て住宅の2階一部が残存している家屋を発見しました。中にはなんと生存者が確認できました。おばあさんがひとり。わたしは近くまで泳いで、瓦礫をよじ登り、窓をたたいて助けてほしいと叫びました。するとおばあさんは中に入れてくれるとのことですが、「近くに一人女性がいるからその子も連れてきてほしい」とわたしに頼みました。わたしは一旦家を離れ、残された僅かな力で女性をおぶって泳いで、またおばあさんのいる家に戻りました。血を拭いて中に入れてもらい、当時上京している娘の服で大きいものを着せてくれました。家の階段では、その家のおじいさんが亡くなっていて、せめて毛布を掛けてあげたいとお願いされ、毛布を掛けに階段を降りました。おばあさんは、おじいさんが目の前で流されたのだと力なく言っていました。
その日は力尽きて死んだように寝ました。翌日、日の出と同時くらいの目覚め。そして二階から外を見ると、そこには昨日は全体が見渡せなかった残酷な景色が広がっていました。道路がどこなのかわからない。人が生活を営み、街であった気配すらそこには感じることはできませんでした。
水位は胸元付近でしたが、わたしは再び父を探すも見つからず、当然助けての声も途絶えていました。
数週間後、自衛隊の方が父の遺体を発見しました。近くの青果市場で安置されているとのこと。青果市場に着くと、そこには左右に並ぶ遺体の列。これが現実世界の出来事なのか。とてもじゃないけど受け入れ難い景色でした。まるで火垂るの墓の世界にでもいるようでした。係の方に父の名前を伝えると、案内され、顔面を覆っていた布が外され、父と確認。比較的、きれいな状態でした。
ここまでが、震災当日、そして父と対面した日の出来事です。
その後の事は、私自身の心的体力がまた、事実と向き合えそうな時に、綴って行くことにします。4,061字にも及ぶ本投稿を最後までご覧いただき、
誠にありがとうございました。
後編ではその後の避難所生活の様子や、生活で大変だったことなどを綴っていこうと思います。きっと些細ながらお役立ちできることがあると思いますので、ぜひご覧ください。
それでは、また。
P.S この記事はリンクをシェアするなり、教材ととして使うなり好きに使って下さい。(もちろん一声かけて頂ければ尚のこと嬉しいですが)
出来るだけ多くの方に10年を迎えようとする日に思いをもう一度、震災に寄せて頂きたく、記事にしたものです。