東日本大震災(2011.3.11)生生しい手記 後編-避難所生活の中で-
この記事を読んで下さった、そこのあなた。
ご縁あってお読み下さりありがとうございます。
また、前編をお読みになっていただきました皆さまは、センセーショナルな内容にも関わらずお読み下さり、シェアして頂いたり、スキ「♡」を押して下さり大変励みとなりまして、早々に再び筆を取りました。ありがとうございます。
この記事は、来年2021年の3月11日で10年の節目を迎える東日本大震災について今一度、被災者のみならず地域外の方々へ、ありのままをお伝えしようと文字に起したものです。前編の記事では、被災当日及び遺体となった父と再会する日の出来事を記しました。本投稿ではざっくりと、その後の生活をもう少しピントを緩め、長い時間軸でお話出来たらと思います。
それでは。。。
何はともあれ、見知らぬ血だらけの少年を家に入れて下さった方のおかげで、私は低体温症の発症による死亡という、エリア一体で多くの方が犠牲になったケースを免れ、最悪の事態を紙一重で回避することができました。
2011年3月12日の朝は、前夜の降り頻った雪空とは一変して晴れ、暖かな日差しが差し込み、昨日の出来事はまるで絵空事であったかのような暖かさが感じられる天気となりました。
それでも目の前に広がる「街全体が廃墟と化した景色」は残酷で、これからの生きる気力を奪って行くには十分過ぎるインパクトがそこにはありました。
当時を振り返ると、被災当日の夜を越すため、どこかに凌げる別な場所を探し当て朝を生きて迎えられたとしても、翌日に一人でこの景色を見ていたなら、そこから立ち上がり、またしても海水に浸かりながら避難所へ歩いて行くという、現実を受け止めた上で、生きることを前提に次なる行動を取る事は出来なかったのではないかと思います。
幸い私は一人ではなく一夜を共に過ごした方がおり、一人は私と同様に頭から海水を被ったままの女性、もうひとりは家に上げて下さった命の恩人であるあばあさんです。この二人を残して、ここでひとり、現実に打ち拉がれているという選択は自然とありませんでした。
「避難所へがんばって歩きましょう。」
私は彼女らを促し指定避難所となっている小学校へ歩を進めました。
避難所へ到着すると教室や体育館はわたしたちのような避難者で溢れ返っていました。
※当時の避難所は避難指定されているにも関わらず避難所そのものが被災し、一部機能しておらず、また箇所数も震災を教訓とした今日と比べると限られていたことから、多くの避難所がキャパオーバーとなっていました。
私は二人とともに避難者が集う体育館へ向かいそこで時間を過ごしました。数時間するとふたりはそれぞれの親戚や家族とコンタクトが取れたため、そこで感謝を伝え、お別れしました。
一方私は言わば震災孤児(震災を期に親がいない子)となっている状態であり、知り合い数名には会うものの、ひとり体育館でどうしたら良いものか、避難者名簿などを目にしながらたぢろいでいたところ、当時のご近所さんで、小さいなころからお世話になっている家族に声をかけていただき同じ段ボールシートへ腰を下ろしました。そして、互いの被災経緯などについて話し、行動を共にさせていただくこととなりました。
※当時の避難者名簿についての一例(わたしの避難先から程近い避難所指定高校の手書きをテキスト化したもの)
私は避難先小学校のの避難者名簿に、「〇〇(自分の名前)、無事、父とは津波に流され別れ、父は恐らくダメだ。二丁目の避難所にいきます」と記したことを覚えています。
当時の避難者名簿にはこうした生死に関する情報や避難先などがノートに刻々と記してあり、各避難所を巡ってこのノートを確認することで家族や親戚、友人の安否確認を行っていました。
避難した小学校では1日の配給がスナック菓子数枚(数袋ではありません)、1個に満たないパンの様なものであったと記憶しています。(後に日を追うごとに少しずつ確保されたと聞いています)
避難者の数を鑑みれば当然の量感であり、身体を横にするスペースも十分でない事などから、これがいつまで続くのか分からない状況の中で、ここに居続けるのは最善の策でないという話の運びで場所を移すことになりました。
小学校へ避難していた一定数の方が私たちと同じようなことを考え、町内会単位(〇〇何丁目会)で残存している集会場や施設を使い、自主避難所が形成されておりました。
私の住んでいた町内は特に沿岸部に位置しており、町全体が被災をしていたことや、同じ町内会の方とコンタクトが取れなかったこともあり、隣町の町内会で形成された自主避難所へ入れて頂くことになりました。
そこではおよそ10日ほど過ごしました。避難者それぞれが自宅に残存していて使えそうなもの、例えば布団や懐中電灯、ドラム缶などを持ち寄り生活しました。
大人の方々は、日中の活動として食糧調達(被災したスーパーや自動販売機から食糧を探したり、水産加工場の魚を探したり)をするため、避難所を空けることが多かったです。
一方高校2年のわたしは避難所に残り、周辺の残存物を集めドラム缶に焚べ、火を起こす係と、残された子ども達のお世話係を担当していました。
自主避難所へやって来た翌日の3月13日にはドラム缶を使い起こした火で、さんまのみりん干しを焼いて食べました。これがが久しぶりに食事らしい食事だったこともあり、それまでさんまのみりん干しといえば食卓に頻繁に顔を揃える中の一品で、あまり好き好んで食べるものではなかったのですが、この日は「おれ、生きて飯食ってるんだな」と生きた心地を噛み締めながら頂いた生涯忘れられない味となりました。
自主避難所で10日ほど過ごした後、指定避難所の小学校から一緒に行動を共にしてきた近所の方宅の親戚宅、いわば私からしてみれば他人ですが、そちらへご厚意でお世話になることになりました。
そこは床上浸水もしていないエリアだったので被災してはいるものの、比較的衛生環境も整ったところで生活させていただくことが出来ました。
とはいえ、電気、水道、ガス、電波のライフラインは全て途絶えている状態で、蓄えのあった食材を頂きながら近くの沢へ水を汲みに行き、煮沸したものを料理に使ったり、沢で頭や身体を洗ったりというサバイバルな生活が続きました。
そして、この時の教訓は、どの場所から山水が湧いているかなど、昔から伝わる地域特有の情報を知っているか否かで、生活を営むことができるかに直結するということでした。これを読んでいるみなさんはご自宅近くの山、あるいは川などで採水に適している箇所を知っていますか。一度調べてみると、大事があったとき、役に立つかもしれません。
更にごはんの事情を少し話をすると、よく作って頂いていたのは、配給となったコンビニなどで売られるおにぎりを汲んできた水や醤油などで煮込みおじやにするというもの。コンビニ用のおにぎりは日が経つと水分が飛んで硬くなり、そのまま食べるには向かないことや、日持ちしない配給などが多いこと、煮込むことで量が増すことなど、当時の状況を鑑みれば理に適ったかつおいしくいただける一品でした。
震災後の配給は数日に1回程度、所属する世帯人数に応じて町内会へ、そして町内会から各家庭へ行き届きます。しかしそれは日が経過し、20日から1ヶ月した頃であったと記憶しております。それまではおよそ自力での調達でした。主な配給食糧は菓子パンと先述したコンビニ用おにぎりでした。どちらも日持ちはあまりせずパターン化していることから、どうやって飽きずにおいしく食べるかが料理の上ではポイントでした。大前提として食べられるだけ、大変ありがたいことなのですが。
話は戻りますが、身を寄せ、お世話になったお宅では当時小学生のお子さん2人、中学生が1人、そして高校2年の私と、こども4名がいる環境で過ごしました。
昼は、子ども達も水汲みや作業があったりしましたが、夜になると蝋燭に明かりを灯してトランプをしたり、小学生の学校の話を聞いたりしていました。被災時の何気ない一コマですが、今思えば子ども達とのこうした対話が日常的に生まれていたことで、一人になる時間が極端に少なく、そのおかげで父の死についての琴線に触れる時間が少なくて済む形となりました。
無論、父の死とは向き合い、考えていかなければならないのですが、対峙するのに一定の時間が必要であったのは事実です。そして自責の念は日々熱を帯び、経年するほどに癌のように病んで心の隙間を蝕んでゆくような感覚があります。
自分が成人を迎えた朝。妻と結婚した日。そして我が子が生まれ成長していく日々…。その節々に、自分の親がこれまで自身にかけてくれた愛情がどんなものであったのかを初めて理解できる瞬間ばかりで、そしてその気持ちや感謝を伝えられないまま、言わば私の選択によって殺してしまった。そんな自責の念がいまこうして記事を書いている最中も私の胸にはあります。「震災が起こした仕方のないことである。」
客観視するとそのような結論に至る方も少なくないと思うのですが、自身の選択により死別を引き起こした当事者からすると、なかなかそうも行きません。そして毎日、「なぜ助けることができなかったのか。」「あの時こうしていれば。」そんな問いを繰り返しています。
そして1ヶ月も過ぎた頃、大学に通うため上京していた兄や近くに住む伯父と連絡が取れ再会し、お世話になったお宅を後にして伯父の家でその後の高校生活を過ごしてゆくことになるのですが、思いの外4,100を数えた字数をなってしまいましたので、続きは次回に記せたらと思います。
次回は、被災後の学生生活で大変だったことや、孤児に待ち受ける課題などについて投稿できたらと考えていますので引き続きお付き合い下されば幸いです。
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今回も最後まで記事をご覧下さり、誠にありがとうございました。