何もしない休日を歓迎する
最近、休みの日にただ漫然と過ごしていることが多いです。
10時くらいまで寝ていて、やっと起きてきたとしても、寝てるんだか起きてるんだかわからないくらい一日中ダラダラしていたりします。
スマホで動画見たり、たまに本を読んで、昼寝して、気が向いたら編み物とかします。
一歩も外に出ません。インドアなので。
安心できる我が家で、好きなことだけをして満足のはずです。
なのになぜか焦燥感に襲われることが多々あります。
何か生産的なことをしないといけない気がする。
何か自己投資になるようなことをして、自分磨きしないといけない気がする。
外に出て、活動的に過ごさないといけない気がする。
仕事のことについて勉強しないといけない気がする。
時間は有限で、貴重な財産なのだから、もっと将来のためになるようなことに費やさないといけなくて、ダラダラと消費することが害悪である気がする…
どんな時間も価値のあるものにしないといけない気がする…
と、このようにだんだんと不安になってくるのです。
せっかく待ちに待った休日なのに、不安と焦りを感じて休んだ気になりません。
もちろん、朝から元気でアクティブに動ける日もあります。
しかし、大抵は休日になると何もする気が起きません。
何もしたくないから、疲れることは何もせずに、好きなことだけやってダラダラ過ごしているのですからそれで満足して然るべきです。
なのになぜ望んだ通りに過ごしているのに満足どころか、不安に苛まれてせっかくの休日を楽しめないのでしょう。
きっとそれは、出世や昇進、儲けることを重視する向上心の高い意見に無意識に影響されてしまっているからです。
多くの人が、高い地位を得ること、より多く稼ぐことを求めているので、そういったマッチョなビジネス論は世間に強く浸透しています。
だから、私は世の中に広まっている「常に上を目指すべき」というメッセージを無意識に拾い上げて、自分に当てはめようとしてしまうのです。
しかし、私にとって重要なのは、地位や名声、富ではありません。
できるだけ心穏やかに日々を過ごすこと。
人にも優しく、自分にも優しくいられること。
自分の内的世界を充実させること。
そういったことが私の人生で重視していることです。
はなから目的が違うのに、なぜ私は意識高いビジネス論を自分に押し付けようとしているのでしょうか…
そしてその結果、せっかくの休日を思い悩んで憂鬱に過ごすなんて、冷静に考えれば愚かなことです。
私は私のために時間を使っていいはずです。
ストレスなく穏やかに慎ましく暮らすことが目標なのですから、それを達成しているのならばもっと自信を持ってダラダラ過ごしていいのです。
自分を癒し、自分を満足させるために休日を過ごしていいのです。
それは誰に許可をもらう必要はないし、そもそも休日の過ごし方なんて誰からも指図される謂れはありません。
休日なのですから。
誰からの強要されていないのに、勝手に意識高い休日を過ごさなければいけないような気がしている私は、自分軸を見失っている状態です。
そんな時は、以前書いた『自分軸を取り戻すために』という記事にあるように、自分の価値観を補強してくれる本を読み返します。
詳しい内容や書籍の紹介は上記の記事をご覧ください。
自分軸がぶれてしまい、憂鬱になっている時は体が重だるく、何もする気が起きません。
もちろん、気分も落ち込んでおり、ひどい時には泣いてしまうこともあります。
そんな時、私はただ本を読み返すのではなく、ぬるいお風呂に入ります。
熱いお湯だと長く入ってられないし、疲れてしまうので、露天風呂くらいぬるい温度にします。
ぬるいお湯に浸かりながら、先ほど紹介したように、自分にとって道標となってくれる本を読み返すのです。
初めから最後まで全て読み返すのではありません。
好きなところ、今の自分に必要なところを読み返します。
この入浴読書が私には効果覿面なのです。
本によって自分軸を取り戻しながら、入浴(半身浴)によってデトックスもできます。
これをすると、30分もすればなんだか体が軽くなり、頭もスッキリして、エネルギーが充電されたような気分になります。
私は入浴+読書ですが、人によっては運動だったり、瞑想だったりすると思います。
その人それぞれ自分に合った方法をいくつか持っているといいかと思います。
自分を癒す方法はたくさんあったほうがいいと思います。
憂鬱は休日だろうと絶え間なく襲ってきますので、私も未だに色々なやり方を模索しています。