流行と不易
今回の記事は、私がここ最近考えていることを綴ったもの。今後どんなことを学んでいくかを思いつけばいいなと思う。
教育界では、「令和の日本型教育」ということばが2021年1月に中央教育審議会で出された。それまでも指導要領に示してある通り、対話的・協働的に学ぶこと、主体的に学ぶことがどのようなことかはしばし議論されてきた。校内研修等でもよく扱われ、研究されてきた。
今回の答申では、「個別最適な学び」というのが押し出されてきた。
また、教科学習等においては子どもの興味関心が湧くように、学習意欲が高まるように、課題解決の必要性のあるといの創造、仕掛け作りが求められている。
意欲や関心を持たせるためにというのはわかるが、そもそも決められた単元配列で学び、学ばなければならない知識事項が決まっている時点で、子どもの興味関心とは乖離しているのだが、そのような点を指摘する人は少ない。
そのように学ばないといけない内容が決まっている限り、課題解決の必要性のある問いの創造には限界がある。
そう考えた時に、課題解決への必要性だけでは押し通せないところがある。つまり生活の中での課題を解決するためだけに学ぶということは困難になる。教科学習で身につける知識や技能、思考表現そのものに魅力がなければならない。できたという実感、価値づけが学びの意欲へとつながる。こちらの方が学びへの意欲がつながる気がする。
しかし、生活に必要なものが身につかないわけではない。課題解決の必要性がある問いを作り出すことに価値があるのではなく、教科学習を通して、学ぶための方法を知ることに価値があるのだ。
つまり、生活上で課題が生じた時には、教科学習で身につけた知識も活用するが、教科学習で知識を得るために身につけた学ぶ方法を使いながら、今までの学習を発展させたり、統合させたりすることを目指さなければならない。その考え方が大切な気がする。確かな学力の学力とは「膨大な量の知識・技能」ではなく、それを手に入れて発展・統合するために使う学ぶ方法だと思う。
学ぶ方法さえ知っていればいつでも知識を手に入れたり、発展・統合することで課題解決へと結びつく気がする。これが知識だけを身につけるのであれば、忘れたら終わり、それこそ膨大な知識量を誇るAIに負けることになる。
学ぶ方法を身につけるために、自由進度学習や問題解決型学習、探求の時間、教師のいらない授業、けテぶれなど子どもたちが学ぶ方法を身につけるための実践が流行している。実践してみると子どもたちが生き生き活動し、とても楽しい。
しかし、このような流行している実践は過去行われてこなかったのかと思いとそうではない。過去に3回もそのような時代の潮流があり、広がりを見せようとしたがその時代時代の影響で上手くいかなかった。
今は4回目の教育改革が行われようとしている。これが潰されれば、あと20年ほどはこのような波がやて来ることはないがだろう。なんとしてでも成功させなければならない。
そこでだ、実は流行に見える実践だが、過去にも行われている実績があり、実は不易の部分がたくさんあるのではないかと考えられる。
今からは、斎藤喜博、木下竹次等の代表的文献をまとめながら、現在の教育でも同じことが言える、大切だという不易の部分を取り出していきたい。その不易の部分こそ先人たちが残した宝なのである。
流行の実践に目が向いてしまうが、不易の部分にこそ教育の本質が詰まっている。不易から新たな実践を積み重ねていく。そのような当たり前のことをやらなくなった20〜30年があるのだろう。現場には、不易の部分を伝える人がほとんどいない。だから、こうやって若手が学び、広げていくことで、不易なものはこれだからこれを大切にした実践を考えようと進んでいかないと、もう公教育は負担が増え、みんなバラバラになり、成り立たない。今こそ不易なものを大切にし、実践を積み上げる必要がある。
しかし、不易なものを大切にした流行の実践がある。これを考え、実践している人たちを大事にし、追試し、実践例を積み重ねることが私たちにできることだ。実践を思いつくことができない場合は、追試すればいいのだ。その時に、不易なものを見失わなければいい。
生み出す者、真似し広める者この両者で日本全体に影響を及ぼさなければならない。初めはアンチもいるだろう。しかし、公教育150年大事にされてきたものがあるなら、きっと本質に近い者なのだろう。それを現代に当てはめながら、実践し続けることで、私たちの正しさが証明できる。
過去3回の教育改革のように潰されて終われないのだ。若い世代から不易を学び、これからの教育を変えていこう。魅力を失っている教職だが、不易なものを学ぶことで、教職の不易な魅力にも気づくことができるだろう。その魅力こそ先人たちが大切にしてきたものだ。それを私はみたい。変えていこう教育を。
頭にあることをまとめただけなので、読みづらいし、論理の飛躍もたくさんだ。話す時はもっとわかりやすいはずだったんだけど・・・